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2016年05月23日

[現代の群衆社会とノイズ(騒音)の暴力の氾濫:暴力・死・他者への無関心]

現代の群衆社会とノイズ(騒音)の暴力の氾濫:暴力・死・他者への無関心

聴覚を刺激する『ノイズ(騒音)の暴力』の特徴として、『不快な視覚刺激の暴力』よりも意識して回避することが難しいということがある。見苦しい景色や不快なテレビ番組、見たくない醜悪な事物などに対しては、私たちは『視線を逸らす・目を閉じる・違うものを見る』などによって意識的に不快な視覚刺激を回避することができるが、ノイズ(騒音)の暴力は耳をふさいでいても侵入してくるので基本的に避けることが極めて困難なのである。

ミシェル・セールの『響きと怒り』とノイズの暴力論

現代社会には『無数の都市・群衆・音楽・テレビ・宣伝広告が出してくるノイズ』が充満しており、特に都市生活者は次第に『音の暴力性(聴覚の暴力的刺激)』に順応していくことになるが、これが現代社会における『様々な暴力(公害・自動車事故・労災・過労死などの非業の死)』に対する不感症の一因になっているのだという。

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[ミシェル・セールの『響きと怒り』とノイズの暴力論]

ミシェル・セールの『響きと怒り』とノイズの暴力論

フランスの哲学者ミシェル・セール(Michel Serres, 1930〜)は、科学的知識の獲得過程について研究した科学哲学者ガストン・バシュラール(Gaston Bachelard,1884-1962)に師事して、ブルバキ構造主義とライプニッツ哲学の影響を受けながら、『現代の百科全書派』と呼ばれる自己の哲学を確立した。

ミシェル・セールは数理哲学を研究して、情報科学分野でもノイズ論や認識論で功績を上げたが、今村仁司(いまむらひとし)によると『響きと怒り』の概念を元にした暴力論も論じているという。セールは『響きと怒り』を哲学の新しい対象として、渡り鳥・蚊・バッタ・遊牧民などの群れを集合体(アグレガ)と呼んだライプニッツ哲学をベースにして、集合体(アグレガ)の本質である『多様性・関係性』を巡る独自の哲学的考察を深めていったのである。

セールの響きと怒りをコンセプトとする暴力論は、集合体の唸りや叫びなど『聴覚』の刺激に基づいており、世界にある騒音と狂乱などの“ノイズ(雑音)”が、暴力の形成や発動の予兆にもなっているのである。本人の意志とは無関係に聴覚を激しく刺激するノイズ(車の騒音・集団の騒ぎ・選挙カーの絶叫・群衆の雑踏・電車の音・大勢の子供の大声・動物の吠え声など)は、確かに視点によっては『避けがたい暴力』にもなり得るだろう。生活音のノイズを巡る近隣トラブルが、殺傷沙汰の事件の原因になってしまうことも少なくないが、それはノイズがある種の暴力として非常に強い怒りや不快を引き起こす危険性を示唆している。

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2016年05月22日

[ヴァルター・ベンヤミンの暴力批判論2:神話的暴力と神的暴力による革命論(絶対平和論)]

ヴァルター・ベンヤミンの暴力批判論2:神話的暴力と神的暴力による革命論(絶対平和論)

ベンヤミンは法措定的暴力と法維持的暴力を『法暴力』と定義したが、この法暴力は更に『神話的暴力』とも呼び変えられる。法的・神話的な暴力の根底にある根源的暴力のことを『神的暴力(純粋暴力)』と呼んで、神的暴力(純粋暴力)は人間世界の範囲に縛られないもので、人間の領域を超越したイメージ的な暴力の源泉でもある。ベンヤミンの神話的な暴力起源論の理解は難しい。

ヴァルター・ベンヤミンの暴力批判論1:法措定的暴力と法維持的暴力

初めに神の荒ぶる声で『神的宣言』が発せられて、神と人間との間に境界線が引かれ、人間存在が偶有的に生起する『原エクリチュール』の現象が起こることによって、純粋暴力としての神的暴力も生み出されるのである。人間の領域で神的暴力(純粋暴力)が繰り返し発動されると、人間社会でも法措定的暴力による法秩序形成の動きが出てきて、『神と人の区別・法的なものと非法的なものとの区別・聖と俗の区別』などが順次行われていくことになる。

すべての経験可能な人間の暴力の背後や根源に、『神的暴力(純粋暴力)』のような人類を暴力が存在する世界に引きずり込んでいくような圧倒的な根源的な力が存在することをベンヤミンは神話的に語っているのである。人間の世界における『神話的暴力』と神の世界における『神的暴力』の違いは、以下のような概念で語られている。

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[ヴァルター・ベンヤミンの暴力批判論1:法措定的暴力と法維持的暴力]

ヴァルター・ベンヤミンの暴力批判論1:法措定的暴力と法維持的暴力

ドイツの文芸批評家・哲学者のヴァルター・ベンヤミン(Walter Benjamin,1892-1940)は、近代の複製技術によってオリジナル(原型)の作品のアウラが失われていくという芸術論の『複製技術時代の芸術(1936〜1939年)』や断片的な随想集である『パサージュ論(1935年,1939年)』で知られている。

ヴァルター・ベンヤミンは前期には近代国家の権力に内在する暴力性を批判した『暴力批判論(1921年)』を書いているが、これは制限のない国家権力は『軍隊・警察などの暴力装置』の恣意的な運用によって、市民生活の自由・安全を逆に脅かしてしまうリスクがあることを指摘した当時としては画期的な著作であった。啓蒙主義の近代の時代に入ってもなお、日常生活のさまざまな分野に暴力現象が溢れかえっていることをベンヤミンは批判し、近代的な法体系を暴力と暴力批判の視座(無政府主義・立憲主義のどちらにもつながる視座)から理念的に捉え直しているのである。

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2016年05月12日

[ポール・ウィリス(Paul E. Willis)『ハマータウンの野郎ども』3:野郎ども(不良)はなぜ自発的に肉体労働をしたのか?]

ポール・ウィリス(Paul E. Willis)『ハマータウンの野郎ども』3:野郎どもはなぜ自発的に肉体労働をするのか?

野郎どもは基本的に仲間との連帯や分配を大切にする『集団主義者』であり、地道な勉強・学歴によって自分だけが優位な地位や高い収入を得ようとする(過去の仲間集団から出世して離れていこうとする)『個人主義的な努力』を抜けがけや利己主義(エゴイストのやり方)として嫌う傾向がある。

自分一人だけ孤独に出世していくような生き方を否定し、いつも仲間と一緒に群れていることで認め合って安心できる労働者階級の一員なのだと開き直ることになる。学校教育は『勉強すれば将来の道が開ける』と言って、みんなを同じ競争原理の条件に従わせようとするが、その中で成功できる人間はごく一部に過ぎないのだから、学校教育は頑張っても勉強の能力が相対的に劣る人間を切り捨てる欺瞞ではないかと批判する。学校教育の勉強・学歴は『仲間と一緒にやる行為』ではないから、自分だけ良ければよい利己主義のやり方に過ぎないと野郎どもは考えるのである。

ポール・ウィリス(Paul E. Willis)『ハマータウンの野郎ども』2:労働者階級・反学校教育の文化的な類似点

学校文化に反抗する野郎どものカウンターカルチャーは、知性・知識を主体的に活用する『精神的行為一般』の否定へとつながっていき、肉体労働以外の精神労働(頭脳労働)には従事できない自意識を確固なものにしていく。家父長制の性別役割分担や男尊女卑の価値観によって、野郎どもはより一層わかりやすい肉体酷使の“男らしさ”を示す肉体労働へと自発的にコミットしていくことになる。かくして、半ば自発的に労働者階級は反学校文化に後押しされる形で再生産されるのである。

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[ポール・ウィリス(Paul E. Willis)『ハマータウンの野郎ども』2:労働者階級・反学校教育の文化的な類似点]

ポール・ウィリス(Paul E. Willis)『ハマータウンの野郎ども』2:労働者階級・反学校教育の文化的な類似点

“野郎ども”と呼ばれるハマータウンの不良たちは、偉そうに学業・生活を指導して説教してくる『教師』に強い反感・敵意を持っており、『学校教育』が象徴する序列(順番)のある社会構造や権威主義に必死に抵抗しようとしている。だが、その『反学校文化・反権威主義のカウンターカルチャー』が、逆説的におちこぼれを(勉強とは関係のない)男性的な肉体労働の世界に自発的に入らせていくことになる。

ポール・ウィリス(Paul E. Willis)『ハマータウンの野郎ども』1:イギリスの階級社会のフィールドワーク

ハマータウンの不良たちは、サラリーマンの中流階層を目指す『パブリックな学校教育・学力競争』ではなく、プライベートな領域である『学校外の家庭・街・おちこぼれの先輩や仲間』から強い影響を受けて、反学校文化的な価値観や生き方を内面化していく。

反学校文化の特徴は、『学業成績(成績証明書)による序列の価値』や『中流階層のサラリーマンを目指す学業・学歴取得の努力の価値』を認めないということである。俺たちは勉強だけしている“今”を楽しんでいないガリ勉ではなく、実際の世の中の仕事・遊び・関係に慣れて通じているのだという『早熟な自負心』が野郎どもを支えている。その自負心はコツコツ勉強して良い高校・大学などに行くよりも、できるだけ早く『男らしい仕事』で働いて収入を得るほうがマシで充実しているという、『労働者階級のライフスタイルや信念体系』へと自然に接続していく。

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[ポール・ウィリス(Paul E. Willis)『ハマータウンの野郎ども』1:イギリスの階級社会のフィールドワーク]

ポール・ウィリス(Paul E. Willis)『ハマータウンの野郎ども』1:イギリスの階級社会のフィールドワーク

イギリスの社会学者ポール・ウィリス(Paul E. Willis,1950〜)は、1970〜1980年代のイギリスで学校教育からドロップアウトした『不良学生・労働者階級・暴走族』の生活様式や文化・価値を、エスノグラフィー(ethnography,民族誌)の手法で研究した。

ポール・ウィリスのいう『労働者階級』とは、中流階級を構成する企業のサラリーマン(一定の学歴を得てから主にスーツを着て仕事するホワイトカラー)や専門職の従事者ではない、工場・土木などの現場で肉体労働を提供するブルーカラーのことである。

このブルーカラーで構成される労働者階級は、従来、学校教育の学力競争に適応できずに仕方なく労働者階級になると考えられていた。だが、ウィリスの社会教育学ではむしろ彼らが学校教育や中流階級(上昇志向)の価値観と敢えて対立することで、半ば自発的に意図せざる結果として労働者階級を再生産することが明らかにされていく。

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