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2008年09月10日

[中国の清王朝の崩壊と西欧列強の進出1:帝国主義による中国の領土分割]

中国の清王朝の崩壊と西欧列強の進出1:帝国主義による中国の領土分割

清王朝以前の中国王朝は、中国が最も優れた文化文明の中心地であるという『中華思想』の自尊心を持ち、周辺諸国に朝貢貿易と儀礼的な拝謁を行わせる『冊封体制』によって東アジア世界の盟主としての地位を得ていた。しかし、満洲族の愛新覚羅(あいしんかくら)氏が皇帝として専制支配する清王朝(1636-1912)の統治力と国力は、19世紀に入ると『政治的内乱(民衆反乱)・経済悪化(民衆の生活困窮)・食糧供給の不足』によって大きく低下し、開国・自由貿易を求める西欧列強の圧力に抵抗し続けることが困難になってくる。清王朝は皇帝に直属する専制主義的な官僚機構を備えていたが、前時代的な官僚機構はエリート主義的発想に基づく『不正・腐敗の温床』となっており、肥大化した官僚政治機構には低迷した国力・財政や揺らいでいる国内秩序を立て直す力が無かった。

帝国主義的な軍事外交を展開する西欧列強の中で、18世紀に中国大陸に進出して貿易活動の主導権を握ったのはイギリスのハノーヴァー朝だったが、イギリスには中国に輸出する商品がなかったために、イギリスは対中貿易で大幅な貿易赤字と銀の流出という問題を抱えるようになった。イギリスは清(中国)から膨大な量の『茶・絹・陶磁器』を輸入し、その代金を『銀』で支払ったのでイギリスが産業革命後の工業経済で蓄積した銀がどんどんと清に流出していってしまったのである。

イギリスが清から最も大量に輸入していたのは宮廷サロン・貴族階級の必需品になっていた『茶』だったが、中国大陸で茶の貿易ができるのは『広州』に限られていた。ハノーヴァー朝のジョージ3世は清(中国)に自由貿易のための更なる開港を呼びかけるために、乾隆帝80歳を祝う祝賀使節としてジョージ・マカートニーを派遣したが、清の皇帝・乾隆帝はイギリス国王の朝貢を許しただけで開港・自由貿易の求めには応じなかった。

イギリスは積み重なる対中国の貿易赤字を解消するために、植民地のインドで生産した『アヘン(大麻)』を清に大量に輸出するようになり(三角貿易の実施)、イギリスの貿易収入が増えて清の貿易赤字が拡大するようになった。清王朝は『貿易赤字の拡大』と『アヘン中毒者の増加』に対処するために、1796年にアヘンの輸入を禁止して密輸取締りを強化するようになる。

乾隆帝の後を継いだ道光帝は、1838年に林則徐(りんそくじょ,1785-1850)をアヘン禁輸の欽差大臣に任命して取締りを強化し、イギリス商人が持っているアヘンを全て没収・処分した。それに激昂したイギリス商人の本国への訴えにより、アヘン戦争(1840年)が開戦することになる。最新の近代兵器・艦隊を持つ圧倒的なイギリスの軍事力の前に敗れた清は、『香港割譲・5港の開港・治外法権・関税自主権・最恵国待遇』を認めた南京条約(1842年)という不平等条約を結ぶことになった。

アヘン戦争の後もイギリスの貿易赤字は十分に改善されなかったので、イギリスは清の役人がイギリス船アロー号の水夫を逮捕したのを理由にアロー戦争(1857年)を起こした。イギリスはフランスと共に中国内部へと侵攻し、1858年に天津条約というアヘン輸入の公認や賠償金の支払を含む不平等条約を結ばせた。

更に中国大陸に進出を続けるイギリスは首都の北京を陥落させて、1860年に『天津など11港の開港・九竜半島の割譲・中国人の海外への渡航許可』を要求する北京条約を結び、清王朝が統治する中国大陸は実質的な植民地へと転落していく。西欧列強・ロシア・日本といった帝国主義の国々によって、清王朝(中国)の領土と利権は分割されることになり、国家主権を弱めた中国内部では太平天国の乱(1851-1864)、捻軍の反乱(1853-1868)、ムスリム(回族)によるパンゼーの乱(1856-1873)など次々に内乱が起こって国内の政治秩序は混沌とした。



posted by ESDV Words Labo at 04:58 | TrackBack(0) | ち:心理学キーワード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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