ウェブとブログの検索

カスタム検索





2008年09月10日

[中国の清王朝の崩壊と西欧列強の進出2:孫文の辛亥革命と毛沢東の中華人民共和国建設]

中国の清王朝の崩壊と西欧列強の進出2:孫文の辛亥革命と毛沢東の中華人民共和国建設

「前回の記事」の続きになるが、同治帝の母・西太后(せいたいごう)の統治下において、太平天国の乱を武力で鎮圧した曾国藩(そうこくはん, 1811-1872)李鴻章(りこうしょう, 1823-1901)の軍閥が勢力を拡大して清王朝の外交の実権を握るようになる。曽国藩・李鴻章・左宗棠・劉銘伝・張之洞ら漢人の高級官僚は『中体西用(ちゅうたいせいよう)』のスローガンを掲げて、中国の伝統文化や王朝制度を守りながら西欧の先進的な科学技術や近代兵器を導入する『洋務運動』を推進した。しかし、1881年に、対ロシアとの間でイリ条約を結んでイリ地方を失い、1884年には、インドシナ半島の植民地化を進めるフランスと『ベトナム宗主権』をかけた清仏戦争(1884-1885)を戦って敗れる。清仏戦争の敗戦によって清王朝はベトナムを含むインドシナの利権を奪われ、東アジアの中華思想・冊封体制に基づく伝統的な政治秩序を大いに揺らぐことになった。

1894年に、朝鮮半島で東学党の乱(甲午農民戦争)が起こると、清は李氏朝鮮の宗主権をかけて明治維新後の近代日本と日清戦争(1894-1895)を戦うことになるが、清はここでも敗れて『アジアの盟主』の座から転落し下関条約を結ぶことになった。李鴻章の誇る北洋艦隊が日本艦隊に敗れたことで李鴻章は一時的に失脚したが、その後、政界に復帰して義和団事件(1900-1901)の敗戦処理を請け負うことになった。李鴻章は日本との下関条約締結の際も全権大使・欽差大臣となり、『台湾割譲・李氏朝鮮の国家主権の承認(朝鮮半島の領主権の放棄)』を認めることになった。

アジアの大国と見なされていた清がアジアの小国の日本に日清戦争で敗れたのを見て、ますます西洋列強による中国大陸分割が激しさを増すことになる。1896年から1898年にかけて、満洲・モンゴル・トルキスタンをロシア、長江流域をイギリス、山東省をドイツ、福建省を日本、華南をフランスとする中国分割が同意されたが、更に、イギリスは香港の九龍半島と威海衛、フランスが広州湾、ドイツが青島(膠州湾租借地)、ロシアは旅順・大連を『租借地』として無期限で借り受けることになった。

清王朝末期に権力を掌握した西太后(1835-1908)は、『扶清滅洋(ふしんめつよう)』をスローガンに掲げる反西洋文明の『義和団の乱』を支持したが、西欧列強と日本の八ヶ国連合軍に北京・紫禁城を陥落させられ、北京議定書に調印することで莫大な賠償金の支払や領土の割譲を行うことになった。

衰微する清王朝に残された勢力復興の可能性は『王朝文化の旧弊の排除+政治・軍制の近代化の成功』しかなく、光緒帝(在位1875-1908)は保守派の西太后の影響力を排除して、若手の士大夫、康有為(こうゆうい)・梁啓超(りょうけいちょう)・譚嗣同(たんしどう)らによる『変法自強運動(戊戌の変法, 1898年4月23日〜8月6日)』を支援した。康有為・梁啓超らの変法自強運動は、日本の明治維新や立憲君主制の導入を参考にしたものだったが、西太后の引き起こした戊戌の政変のクーデターにより中途で挫折した。

日露戦争(1904-1905)が終結すると、清王朝の政府と西太后は最後の望みになった近代化改革を断行しようとするが、清王朝の統治を見限った孫文を中心とする革命主義勢力によって清は滅亡することになる。20世紀初頭の清王朝は、科挙の廃止と六部の解体再編による抜本的な行政改革、近代的憲法の作成と公布、議会政治のための国会開設、軍機処の廃止と内閣の設置など、今までの近代化政策を越えた本質的な政治改革に乗り出す構えを見せていたが、『時既に遅し』であり、中国民衆と知識人の支持と信認を失った清に再建のチャンスが与えられることは無かった。

『中国革命の父』と呼ばれる孫文(1866-1925)は革命主義運動の中心的人物であり、『民族主義・民権主義・民生主義の三民主義』『軍政・訓政・憲政の三段階論』を唱えたことでも知られるが、1911年10月10日に清打倒のための武昌蜂起(ぶしょうほうき)が起きた時にはアメリカにいた。

1911年、孫文を首領とする中国革命同盟会が起こした武昌蜂起を引き金にして、清朝打倒の『辛亥革命(しんがいかくめい)』が起こり、中国各地の軍閥が清から独立して清王朝は滅亡した。1912年1月1日に、アメリカから帰国した孫文が臨時大総統に選出されてアジア最初の共和国である『中華民国(ちゅうかみんこく)』が南京を首都にして建設されたが、北京の最後の皇帝・宣統帝溥儀(せんとうてい・ふぎ)は2月12日に正式に退位することになった(清王朝の滅亡)。しかし、宣統帝を退位させた清の軍閥の首領・袁世凱(えんせいがい,1859-1916)が、孫文から中華民国大総統の座を移譲されると、袁世凱は自身が皇帝に就任するなど反民主的な統制主義の独裁政治を行うようになり、孫文の革命政権の理想はいったん挫折することになる。

袁世凱の死後に中華民国は再び各地の軍閥が勢力を競い合う群雄割拠の時代に入るが、中国国民党の蒋介石(しょうかいせき,1887-1975)の北伐によって中国は再統一された。蒋介石率いる中国国民党は、毛沢東(もうたくとう,1893-1976)率いる中国共産党との中共合作や中共対立を繰り返したが、第二次世界大戦後の中共内戦(1946-1949)において毛沢東に敗北した。蒋介石は1949年に台湾へと逃れて台北を首都とする中華民国を建設したが、この中華民国の歴史が現在の台湾へとつながっている。

中共内戦の勝利によって中国大陸本土は中国共産党が支配するところとなり、毛沢東は1949年10月1日に天安門で中華人民共和国の建国を宣言した。毛沢東は中華人民共和国・初代国家主席に就任して国家権力を独裁的に掌握し、大躍進(1958年)や文化大革命(1966年)といった共産主義思想(毛沢東思想・マオイズム)に基づく急進的な革命運動を強行して、農民や反体制派・知識人を中心に数千万人以上とされる甚大な被害を出すことになる。文化大革命では、ラディカルな共産主義思想を盲目的に信奉し、『造反有利(ぞうはんゆうり,反乱・反抗には正当な理由がある)』のスローガンを掲げる紅衛兵(こうえいへい)の青年・学生集団によって、無実の民衆や知識人が数多く弾圧されるという悲劇も起こった。



posted by ESDV Words Labo at 05:04 | TrackBack(0) | ち:心理学キーワード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

この記事へのトラックバック