中国革命と社会主義・共産主義:毛沢東による中華人民共和国建設
[中国の清王朝の崩壊と西欧列強の進出:1]と[孫文の辛亥革命と毛沢東の中華人民共和国建設]の項目で書いたように、イギリス・フランス・ドイツといった西欧列強の進出と搾取に悩まされた清王朝は、自国の内政改革と技術導入・近代化に失敗して滅亡することになる。孫文(そんぶん,1866-1925)を首班とする中国革命同盟会が武昌蜂起を起こしたことで、中国各地の軍閥が清に反旗を翻す辛亥革命(1911年)が勃発し清王朝は打倒された。1912年1月1日に、アメリカから帰国した孫文が臨時大総統の地位に就きアジア最初の共和国である『中華民国(ちゅうかみんこく)』を建国する。その後、孫文から大総統の地位を移譲された将軍・袁世凱(えんせいがい,1859-1916)が、自ら皇帝を名乗って専制的な独裁政治を行ったことで民主的な革命政府の政治はいったん断絶する。
第3革命によって袁世凱の独裁政権は転覆するが、中国大陸各地は軍閥が群雄割拠する内戦状態となり、1928年頃に北伐(ほくばつ)を達成した蒋介石(しょうかいせき,1887-1895)が一時的に国民政府の主席となり中国を統一した。中国国民党の代表であった蒋介石は、毛沢東率いる中国共産党と二度の『国共合作(こっきょうがっさく:中国国民党と中国共産党の同盟)』を行う。1924〜1927年の第一次国共合作は、中国内部の軍閥の内戦や袁世凱率いる北京政府との対立に備えるためのものであり、1937〜1945年の第二次国共合作は中国大陸の共産化(赤化)のきっかけとなるもので、盧溝橋事件以降の日中戦争に対抗するためのものであった。第二次国共合作は、満州事変を経て中国大陸に帝国主義的な利権を拡大しようとする日本に対応するための中国国民党・中国共産党の同盟であり、抗日の『国民統一戦線』へとつながっていった。
第二次国共合作には、共産主義の世界同時革命を目的とするコミンテルン(共産主義の国際機関,第3インターナショナル)の意向も働いていたとされるが、毛沢東が指揮する中国共産党は既にソビエト国家社会主義共和国連邦(ソ連)と深い関係を持っており、ソ連の支援を受けて1931年に江西省に『中華ソビエト共和国臨時政府』を成立させていた。
『資本論』や『共産党宣言』を書いたカール・マルクスの共産主義思想(革命思想)の原則は、資本家階級(ブルジョワ)と労働者階級(プロレタリアート,ボルシェビキ)の階級闘争を前提としたもので、資本家に不当に搾取されている労働者階級が革命に決起することでプロレタリアート独裁の社会主義(共産主義)政権が誕生するというものであった。しかし、20世紀前半の中国は近代化が遅れており、資本家・経営者が工場労働者を搾取するような産業経済が発達していなかったので、中国共産党の指導者・毛沢東は貧しい農村を活動拠点にしながら、生活に困窮する農民層を共産党軍に取り込んでいったのである。
中国大陸における毛沢東の社会主義革命(共産主義の前段階に至る革命)は、都市部の低賃金に苦悩する労働者層(プロレタリアート)ではなく農村部の貧困に喘ぐ農民層によって成し遂げられたものであるが、1934年10月頃に中国共産党は蒋介石の国民党軍によって壊滅の間際に追い込まれたこともある。長征(1934〜1936年)と呼ばれる各地のゲリラ戦と共産党の再編成、地方都市からの搾取(地主層・資本下層の粛清)によって、中国共産党軍(紅軍)は何とか延命するが、第二次国共合作の成功によって何とか壊滅を免れたという状況でもあった。
毛沢東の中国共産党における指導力や権力基盤は、この苦難の長征を勇敢に指揮したことによって段階的に確立されたと言われる。1945年8月15日、アジア・太平洋戦争(第二次世界大戦)が終結して日本が米国に敗戦したことで、日中戦争も自動的に徹底抗戦の構えを見せていた中国側の勝利となり、蒋介石の中国国民党と毛沢東の中国共産党が協力して国民統一戦線を形成する理由も失われる。
国共内戦が再び活発化するが、共産党軍は東北に進んできたソ連軍の軍事支援を受けることになり、日中戦争で戦い疲弊していた国民政府軍よりも優位になってくる。中国共産党は日中戦争での戦力の消耗が少なかっただけではなく、更に共産党軍を『人民解放軍』として位置づけ貧しい人民に対する計略的なプロパガンダ(宣伝活動)を行ったことで国共内戦に勝利することができた。毛沢東の中国共産党に敗れた蒋介石は台湾へと逃れて、台北を首都とする国民党政府を建設した。1949年に国共内戦に勝利した毛沢東(もうたくとう,1893-1976)は、毛沢東思想と一党独裁体制に基づく社会主義国家である『中華人民共和国』を建国して自身は最高権力者である国家主席の地位に就いた。
中国大陸には古代の春秋戦国時代から、天下を統治する皇帝(天子)の姓が代わるという儒学的な『易姓革命(えきせいかくめい)』の革命観がある。天命思想に基づく易姓革命によって、『放伐(ほうばつ:武力行使による権力奪取)』による王朝交代が倫理的に正当化されていたが、実質的な中国皇帝として振る舞った毛沢東の社会主義革命にも、『戦争の勝者』が正しいとする易姓革命の要素を多く読み取ることができる。中華人民共和国の社会主義革命では、マルクス−レーニン主義の階級闘争的・唯物論的な革命理論だけではなく、中国の伝統的な易姓革命(皇帝交代)の権力観も考慮する必要があるだろう。
同じ『革命(revolution)』という概念を冠していても、『基本的人権や自由主義を前提とする民主主義・議会政治の王権に対する優位』などを掲げる市民革命としての『イギリス革命(清教徒革命と名誉革命)・フランス革命・アメリカ革命』は、社会主義(共産主義)の実現を標榜したロシア革命や中国革命とはかなり性質が異なっている。
市民革命としての『イギリス革命・フランス革命・アメリカ革命』は、自由主義や民主主義(議会政治)の実現を王権・貴族議会・宗主国のイギリスに希求する先進国型の革命であり、一定の近代化(産業化・都市化・教育水準の向上)が成立していなければ先進国型の市民革命は起こらない。一方、ソ連(ロシア)や中国に代表される社会主義革命(共産主義革命)は、民族の独立や国家意識の統合を目的とする反民主主義的な途上国型の革命であり、資本主義社会の生産力・成長力に追いつくために、共産党幹部による官僚独裁主義的な集産・集権体制(専制主義的な計画経済と一党独裁)が選択されることになった。