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2009年01月16日

[ミシェル・フーコーの『狂気の歴史』『監獄の誕生』『性の歴史』:規律訓練システムと環境管理システムが生成する『生権力・生政治』]

ミシェル・フーコーの『狂気の歴史』『監獄の誕生』『性の歴史』:規律訓練システムと環境管理システムが生成する『生権力・生政治』

フーコーはマルティン・ハイデッガーの『技術的存在理解』をキーワードにして、人間存在や自我アイデンティティが各時代の権力システムの影響を受けていると語り、日常的な行動実践や価値判断の枠組みは社会に遍在する『権力の構造』によって規定される。『狂気の歴史(1961)』では古代社会において『神秘・聖性』を付与されていた狂気が、近代社会において『排除・治療(矯正)』の対象となる精神疾患に変化したプロセスを考察している。ミシェル・フーコーの研究方法については、[フーコーの知の考古学(アルケオロジー)]の記事を参照してください。

近代社会の権力が要請する『正常な精神』とは、生産的な労働活動・集団行動に従事して経済発展に貢献できる精神であり、精神疾患の狂気は経済活動にとって非生産的なので『異常性・病理性』として認定されることになる。科学知・医学が発達していない古代・中世社会では『人智を超越した神秘性・神聖性』として狂気は解釈されることがあった。共同体の価値観を統一する宗教活動に『狂気』は利用価値を持っていたので、権力に基づく古代の知は、狂気を異常なものとして治療したり排除する必要性が乏しかったのである。

フーコーの『狂気の歴史』における精神疾患の歴史的な認識はやや偏っており、実際には古代・中世社会でも『狂気』に対する無関心・非寛容があっただけで、狂気に『宗教的な聖性』を見出すことなどは例外的なことに過ぎなかったという解釈も成り立つ。しかし、精神医学の知が発達した近代社会では『精神の正常性と異常性の区分』に対して意識が高まったことは確かであり、その正常性と異常性を判断する基準は権力システムが要請する『生産的な社会生活への適応』にあるのである。フーコーの言う『権力』とは、『社会共同体の生産性・生殖性』を高めるために役立つ人々の行動様式や価値認識を浸透させる力であり、フーコーは『監獄の誕生(1975)』の中で権力が形成する規律訓練型システムについて言及している。

近代社会における刑罰は、犯罪者を『処刑・排除』するものではなく『矯正教育』を施すものであり、近代社会は『教育・労働・刑罰』といった権力システムによって『子ども・労働者・犯罪者』を社会の内部に適応させ同化していく。近代社会は中世以前の封建主義社会のように社会に不適応な人間を外部に排除するといった権力を働かせず、不適応な人間を教育・訓練して内部に取り込み『適応的な生産性のある人間』に作り変えていくのである。フーコーはこういった近代社会の権力が生み出す『人間の精神・身体』を適応させていくシステムを『規律訓練システム』と呼んだ。

『監獄』に入れられた犯罪者は、『監視されている感覚』を内面化させることによって、矯正教育を実施する権力にとって従順で適応的な身体に作り変えられていく。功利主義者のジェレミー・ベンサムは、『誰かに見られている感覚』を意識させて効率的に囚人を監視できる『パノプティコン(一望監視施設)』と呼ばれる刑務所のアイデアを考案したが、現実の近代社会では監獄に入っていない一般人の内面にも産業社会・労働活動のために必要な規範が各種のシステム装置によって内面化されている。

近代社会では身体を『規則正しい行動パターン』によって訓練することで『規律・価値観』を内面化させる規律訓練システムの社会装置が多く準備されており、その代表的なものが『学校・工場・軍隊・監獄・病院』である。規則正しい通学通勤をして仕事や勉強をする『学校・工場』は近代的な規律訓練の典型的な装置であり、精神疾患を治療して正常な精神と労働力を回復させる『病院』も規律訓練システムである。規律正しい行動を厳しい訓練や監視によって『社会・組織に従順な身体』を作り出す軍隊や監獄は、もっとも強力な権力システムの現れとして理解することができる。

未完に終わった『性の歴史』では、同性愛が承認された古代ギリシアの性生活から同性愛を道徳的な罪悪とする中世キリスト教の時代の性生活、自由化が進む現代の性生活までを振り返る予定であった。『性の歴史』では人口の増加を調整しようとする権力と性道徳との相関について分析しているが、社会共同体の利益となる『生殖性・人口増加』に貢献しない同性愛(ホモ・セクシャル)は次第にアブノーマルで道徳的に好ましくない性愛として排除・差別されていった。ミシェル・フーコーの実際の性的嗜好についても、彼が同性愛者であったこと、SM嗜癖を伺わせる拘束具・玩具を所有していたことが指摘されている。

フーコーは近代国家の権力の性格の変質について、『生権力』という概念を用いて説明している。即ち、臣民・民衆の『生』を掌握して反対者を殺害しようとする君主(支配階級)の『殺す権力』は、近代社会において労働力・納税者となる人民を生きながらえさせようとする『生かす権力=生権力』に変化したのである。人権思想が普及した近代社会(現代社会)では、公衆衛生と福祉制度、医療技術によって『労働力・納税者としての国民』を生かそうとする『生権力』が生成され、福祉国家建設によって国民の生命を管理・利用しようとする『生政治(ビオポリティクス)』が確立していくことになる。

現代社会の新しい権力システムは『抑圧的な権力』ではなく『保護的な権力』としてその姿を現し、『医療・福祉・教育・社会保障番号』などによって国民(民衆)を完全に管理統制していく。『生権力』は国民の生命や安全を守るという大義名分を掲げながら、環境管理型システムとして個人を完全に社会システム(権力システム)の内部へと取り込んでいき、『個人の反抗・離脱の意志』そのものを気づかないうちに奪い取ってしまうのである。個人は環境管理型システムによって『システマティックな生』を与えられて管理されるが、生政治が行われる現代社会ではシステムの外部に個人が抜け出すことは原理的に不可能となり、『社会システムの一部』として生きる以外の選択肢が与えられることはない。

環境管理型システム(万全の福祉・医療・教育制度を整備した国家)の内部に個人の人生(自由)が呑みこまれることに抵抗しようとしたミシェル・フーコーは、『倫理的な個人』としての自立を説いて『自由意志と尊厳を持つ個人』の協働連帯によって現代的な生権力から距離を置こうとした。現在の先進国では福祉国家や監視社会、年金制度、社会保障番号(自己を認識する固有のIDナンバー)などのかたちをとって、個人を国家・社会のシステムの一部として『誕生から死まで管理統制』する生政治が整えられてきており、個人と生権力(健康的に生かす権力)との沈黙の同一化が進んでいる。

揺りかごから墓場まで面倒を見て安心を与えようとする生権力は、それ以前の殺す権力よりも抵抗が難しい。いつの間にか個人は生権力(システムとしての社会)の一部として『規律訓練された行動パターン』を繰り返すことになり、決められた制度的システムの中で人生を平穏無事に終えることになる。そういった管理された保護・安心を国民自体が望むことにより(パターナリズムの内面化)、自発的な環境管理システム(生権力・生政治)への協力・従属がより一層強化されていくことになるだろう。



posted by ESDV Words Labo at 10:16 | TrackBack(0) | ふ:心理学キーワード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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