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2009年04月13日

[仏教の日本伝来と聖徳太子の仏教信仰、奈良時代の鎮護国家の思想]

仏教の日本伝来と聖徳太子の仏教信仰、奈良時代の鎮護国家の思想

中国・朝鮮半島(百済)を経由して日本に仏教が伝来したのは、飛鳥時代の“538年(552年)”と考えられている。朝鮮半島の三国時代にあった百済(くだら)という国の聖明王(せいめいおう)が、飛鳥時代にあったヤマト王朝(ヤマト王権)の欽明天皇(きんめいてんのう)に釈迦仏の金銅像や経論などを贈ったというのが日本仏教の始まりである。

仏教信仰の是非を巡って、仏教を受け容れるべきとする『崇仏派』蘇我稲目(そがのいなめ)・蘇我馬子(そがのうまこ)と、仏教を日本から排斥すべきという『排仏派』物部尾輿(もののべのおこし)・物部守屋(もののべのもりや)が争ったが、最終的に蘇我氏(と聖徳太子)が物部氏を滅ぼして、日本に仏教信仰が根づいていく基盤を作った。

厩戸皇子(うまやどのおうじ,聖徳太子)は、物部氏との戦いで神仏の四天王に戦勝祈願をしていたので、戦いに勝利した後に四天王への帰依・感謝の念を込めて摂津国難波に『四天王寺』を建立した。蘇我馬子も神仏の加護に対する感謝の証として『飛鳥寺(法興寺)』を建立しているが、推古天皇・聖徳太子の政治体制の下で仏教信仰は強く奨励されることになり『法隆寺(斑鳩寺)』をはじめとする由緒ある寺院が多く建立された。

厩戸皇子(聖徳太子)『法華経・維摩経・勝鬘経』の三つの経典の解説書である『三経義疏(さんきょうぎしょ)』を書いて仏教に帰依していた。『十七条憲法(604年)』の第二条も『篤く三宝を敬へ 三宝とは仏・法・僧なり』となっていて、仏教には日本(朝廷)の国教的な位置づけが与えられることになった。

天武天皇や持統天皇も仏教を手厚く保護したが、平城京(710年)が建設された奈良時代には、仏教によって災厄(飢餓・疫病)や戦乱を防ぎ国が安定するという『鎮護国家』の思想に基づき、聖武天皇・光明皇后(藤原光明子)が東大寺の大仏(盧舎那仏)を752年に建造している。聖武天皇は741年に『国分寺・国分尼寺(こくにんにじ)』建立の詔(みことのり)を出したことでも知られるが、南都六宗(三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・律宗・華厳宗)をはじめとする奈良時代の仏教は国家を安定させるために信仰する『鎮護仏教(ちんごぶっきょう)』としての性格を強く持っていた。

平安時代の仏教界には、天台宗の最澄(さいちょう)と真言宗の空海(くうかい)という日本の仏教を大きく進化発展させる2人の天才が現れ、天台宗の比叡山延暦寺と真言宗の高野山金剛峰寺が仏教信仰の一大拠点となった。平安時代中期以降は、釈迦の真理の教えが滅びて社会が混乱するという『末法思想』が流行して、阿弥陀仏を信仰する浄土信仰(浄土門)が皇族・貴族・民衆へと急速に広まり、藤原頼通は京都の宇治に平等院鳳凰堂を建設している。

鎌倉時代に入ると、奈良・平安時代に“天皇・公家(貴族)の政治体制を守るための仏教・学問”として栄えた『鎮護仏教』が衰微して、民衆の苦悩救済や浄土信仰の役割を司る大衆化された『鎌倉仏教』が大いに隆盛することになる。仏教は『鎮護国家の儀式や学問・加護』の役割を変質させて、『一般民衆の苦悩や絶望の救済』という役割に大きくシフトすることになり、現代にまで続いている多くの大乗仏教の宗派が生まれたのである。



posted by ESDV Words Labo at 16:20 | TrackBack(0) | ふ:心理学キーワード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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