メラニー・クラインの躁的防衛(manic defences)と幼児的全能感
この記事は、[メラニー・クラインの早期発達論:妄想‐分裂態勢における羨望(envy)と嫉妬(jealousy)]の続きになります。羨望とは『良い部分対象(良い乳房)』に向けられるマイナスの感情であり、自分に満足や安心を与えてくれる『良い部分対象(良い乳房)』を攻撃することで、羨ましさや妬ましさといった不快な感情を和らげようとする。
『良い乳房』を羨望する時に、愛情と憎悪のアンビバレンツ(両価性)が生起するのだが、その場合には『完全な良い乳房』と『完全に悪い自分』という二項対立的な図式が成立して正常な精神発達を阻害することになる。攻撃的な羨望によって乳幼児は、『良い乳房』に内在している生命力・保護力・創造性を奪い取ろうとしたり破壊してしまおうとするが、奪い取ろうとする試みは『取り込み』の防衛機制によって行われる。
過度の羨望は、精神病理の形成要因になったり人間関係にトラブルを引き起こしたりするが、羨望の情動には『憧れ』と『憎悪』という正反対の感情がアンビバレンツ(両価的)に含まれており、健全な憧れが強化されれば向上心や好奇心につながる可能性もある。羨望によって『妬み・憎悪』のほうが強化されてくると、公正な競争・努力をする意欲がなくなったり、他者との人間関係や成功への欲求に無関心になってしまうこともあるので注意が必要である。総体的に見て、発達早期の『羨望』や『嫉妬』が過剰になって長く継続すると、正常な精神発達段階が障害されたり、良好な人間関係の構築が難しくなることがある。
乳児の『妄想‐分裂ポジション(0ヶ月〜3,4ヶ月)』で用いられる原始的防衛機制として分裂(splitting)や投影同一視(projective identification)があるが、『抑うつポジション(4ヶ月〜12ヶ月頃)』で用いられる特異的な防衛機制として“躁的防衛(manic defences)”がある。感情・気分をハイテンションにして活動力を高める躁的防衛は、抑うつポジションで発生しやすい『抑うつ感・罪悪感・不安感・悲哀感情(対象喪失)』などの苦痛な感情を緩和してくれるのである。
抑うつポジションの基本的気分は、自分に愛情や保護を与えてくれた『良い乳房(良い部分対象)』を、羨望によって破壊しようとした自分の考えは悪かったという『罪悪感・抑うつ感』に根ざしているといって良い。つまり、ミルク(母乳)を与えて自らの生命と健康を支えてくれた『良い乳房(母親の部分対象)』を破壊してしまったことを取り返しがつかないと感じるということである。自分の大切なものを破壊してしまった乳幼児には、深い罪悪感・抑うつ感・自己嫌悪などが生じやすくなり、その必然的な帰結として『償い・謝罪の感情』が芽生えてくる。
自分を愛して守ってくれた母親の部分対象(良い乳房)を破壊したことによる『償い・謝罪の感情』というのは、自己否定的な抑うつ感につながる苦痛なものであるので、抑うつポジションの乳幼児は躁的防衛によって完全な自己正当化を図るのである。気分を高揚させて自信満々にさせる『躁的防衛』は、自分が悪いことをしてしまったという『心的現実性』を否定する効果を持ち、自分には何でもできるのだという幼児的全能感(魔術的思考)を強化することになる。
厳密に考えると躁的防衛が否定するのは、『過去の自分は、母親の部分対象(良い乳房)を傷つけた』と『現在の自分には、まだ母親の部分対象(良い乳房)への依存が必要である』の二点であるが、気分をハイテンションにして有能感を高める躁的防衛によって『自我の不完全性・依存性・矮小性』が否認されることになるのである。躁的防衛は幼児的全能感に根ざしていて、1〜2歳の子どもにはまだ不可能な『母親からの精神的自立・実際的な独立』を志向させるが、結局、この独立の試みは断念せざるを得ない。
躁的防衛がもたらす不利益や困難として、『対象の価値を否定する・引き下げる』といった『無価値化・脱価値化(devaluation)』があるが、これは『自分にとっての相手の価値を否定したり軽侮したりする』ということである。躁状態における脱価値化は、『他人の存在価値の否定・他人の言動の侮辱や嘲笑』につながるので、躁的防衛がその後も長く遷延すれば通常の良好な人間関係を作り上げることが極めて難しくなる。つまり、長期化(病理化)する躁的防衛は、人間の情緒発達・知的発達の阻害要因となるだけではなく、他者と相互に関わりあう社会環境への適応を著しく困難にする恐れがあるのである。