精神分析の『退行・固着』と神経症症状
S.フロイトが創始した精神分析の精神病理学では、『退行(regression)・固着(fixation)』によって神経症の症状の形成・維持・転帰が説明されるが、『退行』は自我を苦痛や不安から守るための自我防衛機制として用いられることもある。『退行(regression)』というのは、発達段階の早期(子ども時代)へと精神状態が逆戻りすることであり、『幼稚な性格行動パターン(=依存的な言動・わがままで利己的な訴え・泣き落としによる懇願・情緒不安定な態度)』によって自分の欲求を操作的に満たそうとする特徴がある。
精神分析のリビドー発達論(性的精神発達論)では、人間の精神の発達段階はリビドーの充足が起こる部位によって『口愛期(口唇期)・肛門期・男根期・潜伏期・性器期』に分類されるが、『退行』が起こる場合には『口愛期(口唇期)・肛門期・男根期』の発達段階へとリビドー(性的欲動)が逆戻りすることになる。どの発達段階にリビドー・精神状態が退行するかは、『過去の情緒的体験で形成された固着点』によって変化してくるが、精神分析ではリビドーの『固着・退行』によって精神病理が発症すると考えられている。
ある発達段階で、リビドーが過剰に満たされる『過保護・過干渉・甘やかし』があったり、リビドーの充足が阻害されて過度の欲求不満が起こる『心的外傷・虐待・ネグレクト』があったりすると『固着』が起こり、その段階にリビドーが逆戻りする『固着点』が確立されることになる。リビドー(精神状態)が退行していく『固着点』とは、“愛情・依存・自立・ストレス耐性”などを巡る未解決の心理的課題が残されている地点である。過去のトラウマや過干渉(甘やかし)などによって『固着』が生まれると、成長してからも大きなストレスや苦悩に晒された時に、『幼児返り(幼児的な言動)』をすることで他人に依存したり自分を守ったりしようとするようになる。
『退行』の防衛機制そのものは必ずしも精神疾患(精神病・神経症)と相関しているわけではなく、メンタルヘルスが健康な人でも『相手・状況・場面・アルコール摂取』などによって、子どもっぽい態度を取ったり甘えた発言をする『正常範囲の退行』が起こることがある。健康な人の退行というのは『一時的・部分的・演技的な子ども返り』であり、恋人・配偶者に一時的に甘えて安心感を得たい時やお酒を飲んで日常のストレスを気持ちよく発散したい時(お酒で陽気になり饒舌な態度を取っている時)、信頼できる人にちょっとふざけて甘えたい時などに退行が起こることがある。
病理的な退行は『長期的・慢性的・非適応的な子ども返り』の特徴を有しており、発達の初期段階に退行すればするほど、その病理水準は深刻なものになっていく。精神分析の病理学では、『口愛期への退行=統合失調症・肛門期への退行=強迫神経症・男根期への退行=不安神経症や依存的なヒステリー』といった大まかな図式があるが、基本的には『固着・退行』による精神発達の未成熟によって精神疾患の症状が発症し、環境・人間関係に適応できない問題が起こってくると想定されている。
精神分析的心理療法の面接では、『転移分析』のために『面接中に発生する一時的な退行』を活用することがあるが、『退行している発達段階及び親子関係』を的確に分析することによってクライアントの心的外傷や問題状況が発生した地点を推測できるようになる。
転移と逆転移(対抗感情転移)
精神分析や精神分析的カウンセリングにおいて重要になってくるのが『クライアントの転移分析』であるが、転移(transference)というのは『過去の重要な人物(親など)に向けていた強烈な感情』を『現在の人間関係』の中に向け変えることである。転移感情にまつわる発達早期の人間関係の記憶は、通常、無意識領域に抑圧されているので、クライアント自身がその過去の人間関係や感情体験を自分の力だけで思い出すことは困難である。
『転移分析』とは、その転移感情の原因となっている発達早期の人間関係(親子関係)や感情体験を想起できるように支援していく分析行為であり、転移感情の起源を思い出して言語化することによって現在の感情的な葛藤・苦悩が和らいでくるのである。転移感情には、分析家に愛情や好意といったポジティブな感情を向ける『陽性感情転移』と憎悪や敵意といったネガティブな感情を向ける『陰性感情転移』とがあるが、これらのクライアントが向けてくる感情転移に対して分析家の内面に自然発生的に湧き上がってくる感情のことを『逆転移・対抗感情転移(counter-transference)』と呼ぶ。
分析家は自分の逆転移(対抗感情転移)を的確に取り扱うことができなければならず、クライアントの陽性感情転移の誘惑・接近に呑み込まれず、陰性感情転移の挑発・攻撃に対しては冷静な対応を取れるようにしなければならない。
『逆転移(対抗転移感情)』を精神分析の治療に効果的に活用していくためには、分析家自身が『自分の過去の心理的課題・感情的葛藤・人間関係へのこだわり』を適切に解決しておかなければならず、『クライアントの転移』と『分析家の逆転移』を統合的に解釈することで、クライアントのトラウマの本質と過去の人間関係の苦悩が明確なかたちを取って浮かび上がってくるのである。S.フロイトの治療理論に依拠すれば、『転移分析』は『夢分析』と並ぶ『無意識への王道(無意識を言語化する有効な手段)』になっていると言うことができる。