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2009年07月13日

[ドイツ革命(ドイツ11月革命)の挫折とワイマール共和国の誕生:2]

ドイツ革命(ドイツ11月革命)の挫折とワイマール共和国の誕生:2

11月9日には、首都ベルリンに労働者と兵士、市民が平和とパンを求めて殺到する緊急事態となり、社会民主党党首のフリードリヒ・エーベルト(1871-1925)が首相に任命されてとりあえず政権を掌握した。11月10日に、社会民主党(SPD)、独立社会民主党(USPD)、民主党からなる新政府が樹立されたが、フリードリヒ・エーベルトは急進的な共産主義者ではなかったので、マルキシズム(マルクス主義)に依拠した社会主義国家を建設しようとする『スパルタクス団』カール・リープクネヒトローザ・ルクセンブルクには否定的であった。

エーベルトは社会主義(共産主義)に対しては反革命的であり、穏健な共和主義政権を築こうとしていたので、参謀本部のヴィルヘルム・グレーナー将軍と革命・労働運動の急進化を阻止する協定を結んでいた。共産主義者であるカール・リープクネヒト(1871-1919)ローザ・ルクセンブルク(1871-1919)は、反革命的・保守的なエーベルト政権に反対して、1918年12月30日にスパルタクス団を中心にして『ドイツ共産党(KPD)』を結成した。

1919年1月に入ると、大規模な労働者・市民のデモや武装蜂起が勃発するが、ドイツ共産党は十分な組織力と指導力を発揮することができず、1918年1月9日からの『スパルタクスの週』では、国防軍・フライコール(義勇軍)との激しい戦いでスパルタクス同盟(共産主義勢力・労働者勢力)は敗北を喫してしまう。

右翼的・国家主義的なイデオロギーを持つ国防軍の残党やフライコール(義勇軍:Freicorps)によって、労働者の武装蜂起や革命運動は次々に鎮圧されていき、1919年1月15日には共産主義革命の象徴的なリーダーであったカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクがフライコールによって殺害されてしまった。革命運動の指導者の死後に、労兵レーテ(労働者・兵士の革命的な自治組織)は次々に閉鎖・解体に追い込まれることになり、リープクネヒトやルクセンブルクが主導したスパルタクス同盟の共産主義革命への理想は完全に挫折することになった。

1919年1月19日に、国民議会選挙が実施されて、社会民主党が最大多数の議員を抱える第一党になった。1919年2月6日に、ヴァイマルで国民議会が召集されて国家の政治体制を『議会制民主主義共和国』として定め、ドイツ初の共和政体である『ワイマール共和国』がここに誕生した。

社会民主党・民主党・中央党が連合した『ワイマール連合』が政権を担当することになり、初代大統領はフリードリヒ・エーベルト、首相にはシャイデマンが就任することになった。当時の世界で最も民主的な憲法として評価された『ワイマール憲法』が1919年8月11日に制定された(1919年8月14日に公布・施行)。

しかし、ワイマール共和国には軍部、独占資本家、ユンカーなどが支持する『極右的勢力・民族派』と共産主義者、労働組合の急進派などが支持する『極左的勢力・革命派』とが共存して激しいイデオロギー闘争を続けており、その政権基盤と民主的な国家理念はかなり不安定で危うい側面を持っていた。

1933〜34年に、『ドイツ第三帝国』を標榜するナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)が政権を掌握して、アドルフ・ヒトラー(1889-1945)が独裁的な権力と総統(フューラー)の地位を確立したことによって、立憲主義に基づく民主主義体制を採用したワイマール共和国は実質的に瓦解することになった。

近代ドイツの歴史に興味がある人は、[ドイツ革命(ドイツ11月革命)の挫折とワイマール共和国の誕生:1]も合わせて読んでみて下さい。



posted by ESDV Words Labo at 11:01 | TrackBack(0) | と:心理学キーワード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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