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2009年08月02日

[ワイマール共和国の崩壊とナチズムの台頭:1]

ワイマール共和国の崩壊とナチズムの台頭:1

アドルフ・ヒトラー率いるナチス党は、当時、最も民主的・自由主義的な共和国と評価された『ワイマール共和国』を否定する形で台頭した。ワイマール共和国は1918年11月の『ドイツ革命(ドイツ11月革命)』を契機として、社会民主党を中心に成立した共和国である。

ロシア革命の影響を受けたドイツ革命(11月革命)が勃発したことで、ドイツは一時的にカール・リープクネヒトローザ・ルクセンブルクが率いるスパルタクス団などによって社会主義化の気運が高まる。しかし、急進的な社会主義革命を嫌った社会民主党が、保守派の義勇兵を用いて社会主義運動を鎮圧したことで、民主主義・議会政治・資本主義(市場経済)で運営される『ワイマール共和国』が1919年に成立した。

ワイマール共和国は、当時最も先進的で民主的と言われた『ワイマール憲法(1919年8月11日に公布・8月14日に施行)』を備えており、20歳以上の男女による『普通選挙・大統領選挙』や国民に最低限度の生活と生存を保障する『社会権』を規定していた。任期7年のワイマール共和国の大統領は、国民の直接選挙で選出され『軍事統帥権・閣僚任免権・議会解散権』などの強い権限を持っていたが、第一次世界大戦の敗戦よる混乱と貧窮、インフレによって統治基盤・社会情勢はかなり不安定であった。

ワイマール共和国は『3つの期間』に分類されるが、ワイマール共和国で大統領に就任したのはフリードリヒ・エーベルト(1871-1925)ヒンデンブルグ(1847-1934)の二人だけであり、1934年に形式的な大統領の地位に置かれていたヒンデンブルグが死去したことによって、ナチスのアドルフ・ヒトラー総統がドイツの全権を完全に掌握することになった。

ワイマール共和国は『混乱期(1919年〜1924年)・安定期(1924年〜1929年)・崩壊期(1929年〜1933年)』の3つの期間に区切ることができる。“ナショナリズム・ユダヤ人排撃・軍事侵略”を煽動するナチス党が急速に台頭して、1933年にドイツ国家の全権力をナチスに委託する『授権法(全権委任法)』が成立したことで、ワイマール憲法に基づく民主主義・議会政治が無効化して、ワイマール共和国は実質的に崩壊した。

自由主義・民主主義・議会政治を実現した先進的なワイマール共和国であったが、その統治はヒトラー率いるナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)の出現によって短命に終わってしまう。1920年代のドイツは平和主義的な協調外交を展開して、『敗戦後のヴェルサイユ体制』を受け容れて、順調に経済復興を進めながら1924年9月の『ドーズ案』で賠償問題も解決に向かっていた。

ドイツの首相・外相のシュトレーゼマン(1878-1929)は、1925年10月16日にスイスのロカルノで『ロカルノ条約』を締結して、ドイツ・フランス・ベルギーの国境を画定して『ラインラントの非武装化』を取り決め、平和的・宥和的な地域全保障体制を実現した。

ノーベル平和賞を受賞したシュトレーゼマンは、第一次世界大戦の賠償金支払を現実的にした『ドーズ案(1924年)』を受け入れ、ドイツ・フランス・ベルギーの相互的な安全保障である『ロカルノ条約(1925年)』を採択し、ドイツの『国際連盟加入・常任理事国入り(1926年)』を実現する功績を残している。しかし、ドイツ国内の右派(民族主義者・国家主義者)は、妥協的なシュトレーゼマンの平和主義外交を厳しく非難するなど、国内の世論は必ずしも協調外交に賛同する国民ばかりではなく『ドイツに不利なヴェルサイユ体制への不満・怒り』も鬱積していた。精神的ストレスや身体的疲労を蓄積したシュトレーゼマンは、心臓発作によって死去している。

近代ドイツの歴史について知りたい人は、[ドイツ革命(ドイツ11月革命)の挫折とワイマール共和国の誕生:1][ドイツ革命(ドイツ11月革命)の挫折とワイマール共和国の誕生:2]の記事も合わせて読んでみて下さい。



posted by ESDV Words Labo at 08:36 | TrackBack(0) | な:心理学キーワード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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