ワイマール共和国の崩壊とナチズムの台頭:2
この記事は、[ワイマール共和国の崩壊とナチズムの台頭:1]の続きになります。1923年1月にフランス・ベルギー両国は、賠償金の支払いが滞っているドイツに対して軍隊を派遣し、ドイツの重工業地帯ルールを占領した。ルール占領に対してドイツの右派は『受動的抵抗・ゲリラ攻撃』で対抗したが、穏健派のシュトレーゼマンが右派の暴力的抵抗を抑制したために、ドイツ国内における強硬派と穏健派の内部対立の溝が深まった。
この政治的混乱に乗じて1923年11月にヒトラーが『ミュンヘン一揆』を起こす。国民革命のクーデターによるワイマール共和国の転覆を計画したヒトラーのミュンヘン一揆は鎮圧されるが、逮捕されたヒトラーは『強行なクーデター路線』から『合法的な議会主義路線』へと政権獲得のための手段を転換することになる。
ワイマール体制下のドイツは、1926年にフランスの同意を得て国際連盟に加盟して、常任理事国となり、1928年8月にはフランス外相ブリアンとアメリカ国務長官ケロッグとの間で国際的な不戦条約である『ケロッグ=ブリアン条約』がパリで締結された。1929年には1924年の『ドーズ案』に続く、ヴェルサイユ体制におけるドイツの国家賠償に関する『ヤング案』が成立して、ドイツの戦後復興と国家賠償は順調に進んでいるように見えた。
しかし、1929年の『大恐慌(世界恐慌)』によって、ドイツ国民の雇用と経済生活が破綻してしまい、ヴェルサイユ体制(賠償金の支払い・不平等な国際条約)に対する不満と反発が吹き出す。ドイツ国民の雇用と生活を破戒した大恐慌によって、ナチス・ドイツの政権獲得を後押しするかのようにナショナリズム(民族主義)の追い風が吹くことになり、次第に平和主義的な協調外交に対する国民の支持は衰えていった。
1925年の大統領選挙で選出された保守派の軍人ヒンデンブルクは、1929年の世界恐慌の影響で不況のどん底に陥った国民生活を再建することができず、ドイツの議会政治は『失業保険の保険料引き上げ』を巡る問題で1930年3月に崩壊した社会民主党のミュラー政権(大連立政権)で終焉を迎えることになった。1929年以降は、ドイツの景気と雇用情勢は悪化の一途を辿り、1932年頃には600万人以上の失業者が生まれて、政府の内政・外交に対する不満や怒りが危険な領域にまで高まってくることになる。
1932年の大統領選挙では、現職のヒンデンブルクが辛うじてヒトラーに勝利して再選を果たす。1932年12月に首相に就任したシュライヒャーは、『ナチス分裂の計略』を図って政権を安定しようとするがこれに失敗して、1933年1月30日に遂にヒトラーが首相に任命されてナチスが政権を掌握することになる。当時もっとも民主的な立憲主義と政治体制を実現していた『ワイマール共和国』は、大恐慌(世界恐慌)による中間層の経済的な困窮と政治的な不満によって、ナチスの台頭を招いてしまい短期で崩壊することになった。
ワイマール体制が短命に終わってナチスの台頭を招いてしまった要因としては、『大恐慌によるドイツ国民の失業と困窮・ヴェルサイユ体制に対する潜在的な不満・自由主義(人権)の不可侵性を担保していないワイマール憲法の原理的欠陥・保守的な大企業や地主の景気回復への圧力・世界同時不況による国際情勢の緊張化・ドイツ国民の自由からの逃走』などを考えることができる。エーリッヒ・フロムが提唱した『自由からの逃走』については、過去の記事も参照してみてください。