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2009年08月08日

[ナチス・ドイツによる政権掌握と第二次世界大戦での敗戦]

ナチス・ドイツによる政権掌握と第二次世界大戦での敗戦

1933年1月30日に、アドルフ・ヒトラー(1889-1945)は首相に就任して、同年3月に『全権委任法(授権法)』を議会で成立させて、ワイマール憲法に違背する法律でも制定できるようにして立憲政治を停止させた。政権を掌握したナチスは1933年に共産党・社会民主党を弾圧して、政党政治や普通選挙を機能麻痺させることに成功し、ドイツ第三帝国における『一党独裁体制』の基盤を確立した。暴力による威圧や脅迫によって反対勢力を制圧していったナチスの『突撃隊(SA)』であるが、1933年〜1934年に突撃隊のレームらが国防軍と対立する『レーム事件』が起こった。

ヒトラーは1934年6月30日にレームら突撃隊幹部を粛清して、ナチスの統制から外れた『突撃隊(SA)』を解散させた。ヒトラーは『突撃隊(SA)』に変わって、『親衛隊(SS)』や秘密国家警察の『ゲシュタポ』を暴力的な実働部隊として縦横に活用するようになった。1934年8月2日にはヒンデンブルク大統領が死去して、ヒトラーは国家元首と首相の役割を兼任する絶対権力者の『総統(フューラー)』として、第三帝国に君臨することになった。

ヒトラーはドイツ国家の全権を保有する『総統の地位』を国民投票によって承認させ、国防軍に対する統帥権も掌握した。『ゲシュタポ・密告制度・強制収容所』の威圧によって国民の各種の自由を大幅に制限し、反ユダヤ主義や攻撃的な軍事戦略によって国民の不満の目をユダヤ人や外国に逸らさせた。1935年には平和主義的な協調外交路線を放棄する『再軍備宣言』を発し、1936年3月には『ラインラント進駐』によって、シュトレーゼマンがフランスとの間に結んだ『ロカルノ条約(1925年)』を一方的に破棄してヨーロッパの軍事緊張を高める事態を引き起こした。

攻撃的な積極外交と排他的な民族主義(ユダヤ人弾圧)によって国政を運営するヒトラーは、1939年9月には外国への軍事侵略である『ポーランド進攻』を行い、フランス・イギリス・ソ連・アメリカなどを敵に回す第二次世界大戦へと戦線が拡大していくことになる。『反ユダヤ主義』を前面に掲げてユダヤ人を弾圧したナチス・ドイツは、反ユダヤ主義をユダヤの金融資本を巻き上げる道具として用いただけでなく、ドイツ国民を攻撃的なナショナリズムやファシズムへと統合するイデオロギー装置として反ユダヤ主義を活用した部分もある。

イギリス・フランス・アメリカといった『連合国』と対立したナチス・ドイツは、1940年9月27日にイタリアや大日本帝国と『三国軍事同盟(枢軸国の同盟)』を結んで世界大戦を戦ったが、ソ連がドイツに敵対したことで次第に劣勢に追い込まれて敗戦することになる。戦局の劣勢と国力の疲弊が目立ってきた1944年7月20日には、反ナチスの保守派によってヒトラーの暗殺計画が実施されたが失敗する。1945年4月30日に敗戦が確定したヒトラーは、ベルリンの地下壕でピストル自殺をしてその生涯を終えた。

posted by ESDV Words Labo at 17:09 | TrackBack(0) | な:心理学キーワード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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