男根期性格(phallic character)とエディプス・コンプレックス
エディプス・コンプレックスでは『異性の親(母親)』への性的欲求や独占欲を持つが、『同性の親(父親)』との心理的な競争・対決に敗れて、異性の親への独占欲を断念して社会性(社会規範)を獲得することになる。
男根期(エディプス期)で経験するエディプス・コンプレックスの発達上の意義は、同性の親である父親(母親)の権威や叱責によって『幼児的な全能感・魔術的な思考』が去勢されて、自分の思い通りにならない『現実・社会・権威』がこの世界に存在することを実感するということである。男根期における『男根(ペニス)』は『権威・権力・男性性(支配性)』のメタファーであるが、この時期にペニスの有無によって『男女の生物学的な性差』を明確に区別するようになってくる。
幼児が『異性の親(母親)』の愛情や保護を全面的に奪い取って独占しようとするエディプス・コンプレックスでは、『同性の親(父親)』にその母親に対する独占欲求を知られて処罰されるのではないかという『去勢不安』が生まれる。男根期に感じる『去勢不安』というのは、父親に『権力・男性性のメタファー』である男根を去勢されるのではないかという不安であるが、この去勢不安は父親のパートナーである母親を独占したいという子どもの欲求と結びついている。
エディプス・コンプレックスと去勢不安によって、子どもは『家庭内の依存的な親子関係』から『家庭外の社会的な人間関係』へと移行する契機(きっかけ)を得ることになり、リビドー充足の対象も『母親(父親)』から『学校の友人・異性』へと変化していくのである。
自分のリビドー充足が父親(社会的権威)によって阻害される『エディプス・コンプレックス』を経験することによって、『心理的な社会化』や『超自我(内的な道徳規範)の形成』が起こってくるということも重要な発達上の変化である。
超自我(superego)というのは、良心や道徳観として機能する精神機能(心的装置)であり、両親のしつけ(教育)や社会的な経験の内容が内面化されることで超自我が段階的に形成されていく。社会のルールや道徳的な規範に違反する『悪いこと』をすれば処罰されるという感覚の原点は『エディプス期の去勢不安』にある。
しかし、この去勢不安が必要以上に強すぎると、『超自我(善悪の判断基準を司る良心)』が過剰に働くようになり、何も悪いことをしていないのに罪悪感や自己否定感を感じて、自分に対する自信や社会生活に対する確信を失ってしまう恐れもある。超自我は『〜せよ,〜してはいけない』という道徳的な命令を行うのだが、この去勢不安(処罰への不安)と連動する超自我が極端に強くなると、罪悪感によって自分のやりたいことさえできなくなったり、快楽原則に従って行動することそのものが悪いことだと認識してしまうようになったりする。
超自我が過剰に働くことの問題点は、『楽しいこと・気持ちよいこと・性的なこと』のすべてに対して不必要な罪悪感や羞恥心を感じやすくなるということであり、自分の欲求や感情を抑圧することで『性格の偏り(潔癖症・禁欲主義)・神経症の症状』が生成してしまうこともある。
そのため、男根期における親のしつけ(教育)では、『あれもダメ、これもダメ』と何でも否定的に注意し過ぎないように気をつける必要がある。セクシャリティ(性的事象)についても、『性的なモノや行為全般が汚らわしい、性的な対象や行為を楽しむことは罪深い』というような極端な性の禁忌(タブー化)は望ましくないのであり、『子どもの年齢』に見合った性的関心や性的欲求についてはそれを全面否定するのではなく、『行き過ぎた行為・関心』だけをそれとなく注意・抑制すれば良いと言える。