H.サールズの治療的共生(therapeutic symbiosis)と転移分析
精神分析家のH.サールズ(H.Searles)が統合失調症患者への対象法として呈示したのが、『治療的共生(therapeutic symbiosis)』である。H.サールズは、M.マーラーの『乳幼児発達理論(分離‐個体化理論)』に基づいて治療的共生を考えているが、これは『幻想的な母子一体感』をカウンセラーと統合失調症患者との間で再現しようとする意欲的な取り組みであった。
女性分析家のM.マーラーは、母親と乳幼児を対象にした発達早期の精神分析を実施する中で、『分離−個体化理論』の仮説を提示した。M.マーラーの理論では乳幼児期(0歳〜3歳)の発達段階は、『正常な自閉期→正常な共生期→分化期→練習期→再接近期→個体化期』に分類されるが、未分化期にまとめられる『自閉期・共生期』では母親と赤ちゃんが心理的に分離していないという特徴が見られる。
自己と他者が未分離である『共生期』では、母親が自分と子どもが一体化しているという『幻想的な母子一体感』を感じることがあるが、H.サールズはこの母子一体感を心理療法で再現することによって『統合失調症の患者』の精神発達をやり直させようとしたのである。精神分析の精神病理学では、統合失調症の原因は『口愛期(共生期)への固着・退行』だとされていたので、口愛期で受け取ることができなかった『母親の愛情・好意』を精神分析の治療関係の中でもう一度与えようとしたのである。
現代のエビデンス・ベースドな精神医学では、精神分析の精神病理学に基づく統合失調症の原因・理解は否定されていて、統合失調症の標準療法も『精神療法(心理療法)』から『メジャートランキライザーを用いた薬物療法』へと変化している。H.サールズは統合失調症の原因を、『早期母子関係における分離−個体化の失敗』にあると仮定していたので、分離−個体化の精神発達プロセスをもう一度やり直して精神の健康を取り戻そうとしたのである。その具体的な実践法が、統合失調症の患者と心理的に一体化して、患者の内的世界に寄り添っていくという『治療的共生』であった。
発達早期の赤ちゃんは、漸進的に分離−個体化のプロセスを進めていくのだが、『母親から離れて一人で過ごせる精神機能』を再形成するためには、『過去の母子関係』を再現するような治療的共生の体験が求められるとサールズは主張したのである。H.サールズは『転移(transference)』や『逆転移(counter-transference)』の臨床研究も精力的に行っており、治療的共生を『転移分析の変則的な形態』だと解釈することもできる。
『転移』とは『過去の重要な対象との人間関係』を『現在の分析家との関係』の中で再現するということであり、過去に重要な対象に対して抱いていた感情・欲求を分析家に向けるということでもある。治療的共生とは過去に得られなかった『母親からの愛情・保護』を、もう一度リアルに体験してもらうために、『分析家に対する転移』を利用するということである。
そして、患者の転移感情と分析家の逆転移感情を治療的に取り扱うためには、適切な『転移分析』を行う必要がある。『過去の満たされなかった感情』と『今・ここでの感情』を合理的あるいは言語的に区別できるようになることで精神分析療法の効果は高まってくるとされていた。