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2010年02月03日

[ジョルジュ・バタイユの『呪われた部分』3:蕩尽による享楽を排除する近代社会の経済‐労働構造]

ジョルジュ・バタイユの『呪われた部分』3:蕩尽による享楽を排除する近代社会の経済‐労働構造

この項目は、[前回の記事]の続きになります。バタイユの著作『呪われた部分』は、経済合理性に偏った『限定された経済学』を補完・超克する『一般経済学(普遍経済学)』を構想している。タイトルにある『呪われた部分』とは何かということであるが、端的には経済合理性(利益獲得を目指す損得勘定)の価値判断の枠に収まらない『消費(蕩尽)・ハレ(祝祭)・宗教(神秘)・エロス(セクシュアリティ)・芸術文化』などのことである。

バタイユは人間の喜びや快楽の本質を『生産・蓄積過程』にではなく『消費・蕩尽過程』に見出しているので、人間が本当に心から充足感や生き甲斐を感じるためには、貯め込んだ財・エネルギーを思いっきり放出する『消費・蕩尽』が重要だと考える。その行動や判断をすることによって、経済的に“利益”を得るのか“損失を出してしまうのかという“合理性=過剰蓄積”に捉われている限り、人間に本質的な充実や喜びをもたらす『蕩尽の享楽(快楽)・至高の聖性(ハレ)』を体験することはできないのである。

私たちが生きる近代社会は、資本主義システムと蓄積・倹約を称揚する労働道徳によって運営される『経済合理的な社会』であるが、経済合理性の価値判断や人生の計画性は近代社会から『呪われた部分(人間的な蕩尽の享楽)』を持続的に排除してきた。近代経済社会では経済的な価値(数字)が増えるか否か、物理的な財(商品)が多く作られるか否か、社会構成員(国民)が労働者として勤勉に働くか否かが、『富・豊かさの基準』とされている。

バタイユはこの『経済合理的かつ将来計画的な近代性』を厳しく批判しており、人間的な生を真に充実させていくために、蕩尽・神聖・快楽に代表される『呪われた部分』の再考を促しているのである。

現代社会(現代日本)では、老後の生活資金のための『貯金・社会保障(公的年金)』ばかりに意識が向かい、享楽的な消費(蕩尽)が過度に抑制されているため、『呪われた部分』の出現による人間的な幸福や喜びの大半が喪失されている状況にあるように見える。

産まれてから死ぬまで『合理的・功利的な社会制度』に守られて、老後生活や将来の保障のことばかり考えて長い人生を送るなどというのは、バタイユの蕩尽の思想からすれば『将来不安に取り付かれて、人間的な喜びや幸福を見失っている状態』と言える。老後に安心するために若いうちは不幸になるという『本末転倒の文明病』とも解釈できるが、バタイユはこういった生産・蓄積・計画ばかりを重要視する近代的合理性(近代の社会設計)を『反自然的』と認識していた。

『呪われた部分』とは異なる見方をすれば、経済合理性や生産性至上主義を『自然的・人間的な喜びや充実』によって否定する呪術力のようなものであり、経済的な損得を抜きにした『人間と人間のコミュニケーションやエロティシズム』にも呪われた部分の幸福感が宿っている。バタイユの思想は過剰化過程と過少化過程という人間社会・自然世界に『普遍的な構造』を抽出して、近代的な計画管理体制を否定しようとする『人間本来の生のあり方(蕩尽の享楽)』を強力に促進する魅力を持っている。



posted by ESDV Words Labo at 09:32 | TrackBack(0) | は:心理学キーワード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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