E.クレペリンとE.ブロイラーのパラノイア研究(paranoia study)
エミール・クレペリンの精神医学体系では『精神疾患の経過(発症・転帰・予後)』という縦断的な疾患分析が重視されたが、精神分裂病(Schizophrenia)の診断基準を定義したオイゲン・ブロイラー(Eugen Bleuler, 1857-1939)はクレペリンの疾患理解を横断的なものへと修正した。
即ち、E.クレペリンの縦断的(通時的)な研究では『症状の経過・予後』が重視されたが、E.ブロイラーの横断的(共時的)な研究では『現時点における症状・特徴』のみがクローズアップされて病理学的に記述されていったのである。
パラノイアは理性と狂気の中間的な心理状態にある精神疾患であり、現実吟味能力は障害されないので通常の社会生活や対人関係に一定の適応を示すことができ、『妄想体系の内部』に限っては顕著な矛盾や誤解は少ないと考えられている。妄想体系と人格構造の統合が為されているような患者もいて、そのケースでは『妄想の修正』は極めて難しいが、長年にわたって語り続けてきた妄想のリアリティ(真実のように聞こえる度合い)が高まっていることも多い。本人に嘘をついているという自覚も意図もないので、所謂『虚言癖』とは異なる。
精神科医であり哲学者のカール・ヤスパース(Karl Theodor Jaspers, 1883-1969)は精神医学分野の研究も多く行っているが、ヤスパースはパラノイアの妄想体系を了解可能なものと解釈している。
K.ヤスパースはパラノイアを精神疾患(精神病)の一種と断定するのではなく、人格構造の特異な発展形態の一種と考えていた。その為、『妄想体系の具体的なエピソード』を傾聴していけば、その内容は一般の人にも了解可能であると考え、『観念連合(思考・言語の正常なまとまり)』が解体している支離滅裂な精神病の妄想とパラノイアを区別した。
E.クレペリンは縦断的・通時的な『症状の経過(病態の変化)』を綿密に観察して、近代精神医学を体系化して教科書を執筆したが、クレペリン以前の精神医学は『知性・情動・意志の精神機能』の障害にだけ注目するスタティック(静的)な精神病理学を前提としていた。E.クレペリンは精神疾患の定義に『縦断的な時間軸』を持ち込んで予後を推測したのだが、E.ブロイラー以降に『横断的な症候学』が主流になっていき、精神病は『二大内因性精神病(統合失調症と双極性障害)』にスタティックにまとめられてしまった。
現在、国際的にスタンダードな疾病分類や診断基準として用いられている『DSM-W』も、『現象学的な症状記述(現時点で観察可能な症状の判定)』と『多軸診断(網羅的な精神障害の整理分類)』を前提としており、クレペリン的な症状の経過予測(発症・経過・予後)の要素はほとんど考慮されていない。現在ではパラノイアと統合失調症の境界線は薄まっており、基本的に体系化された妄想症状は統合失調症の『陽性症状』として判断されることが多い。
精神分析の歴史において著名なパラノイアの症例として、ジャック・ラカンが診療していた『エメの症例』があるが、エメは『自意識の過剰・外界への過敏性・他者への過剰反応(理想自我の投影)』の症状を示して、当時の人気女優だったユゲット・デュフロを襲撃する事件を起こしている。『エメの症例(マルグリット・パンテーヌの症例)』は、現実適応能力がかなり大幅に障害されていて、実際に他人に危害を加えていることから、精神病圏に近い症例だったのではないかと推測される。
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