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2010年03月18日

[パリ・コミューン(Paris commune)とフランスの市民革命・共和政]

パリ・コミューン(Paris commune)とフランスの市民革命・共和政

この記事は、[前回の記事]の続きになります。第二共和政はナポレオンの甥であるルイ・ナポレオンが、1851年12月2日にクーデターを起こして崩壊する。1852年には、国民投票を経てルイ・ナポレオンは皇帝ナポレオン3世となり、『第二帝政 (1852-1870)』がスタートした。

ナポレオン3世は数多くの対外戦争に勝利してフランスの領土・利権を拡張することに成功したが、スペインの王位継承権を巡ってビスマルクが率いるプロイセンと対立し、『普仏戦争(1870-1871)』で戦って敗れる。セダンの戦いでプロイセンに捕虜にされる屈辱を味わったナポレオン3世が失脚して、第二帝政は崩壊することになり、『第三共和政(1870-1940)』が始まる。

ナポレオン3世が失脚すると、1871年9月4日にトロシュ将軍を首班とする『国防政府(臨時政府)』が成立し、1871年2月26日には臨時政府の代表となったアドルフ・ティエールが、ドイツに対してアルザス・ロレーヌの割譲と50億フランの賠償支払いを認めて講和条約を結ぶ。しかし、パリ市民はこの1871年5月のフランクフルト講和条約の内容やドイツに対する臨時政府の弱気な外交に強い不満を持っており、パリ市民軍や労働者階級は政府の『武装解除の命令』に従わず武装蜂起を起こした。

ドイツ帝国と不利な条件で講和して武装解除に応じようとする臨時政府に、労働者階級中心のパリ市民は反旗を翻して『パリ・コミューン(Paris commune)』と呼ばれる直接民主主義的な革命自治政府を樹立したのである。パリ・コミューンは世界初の労働者階級の市民による革命政権(直接民主制の自治政府)と言われたりもするが、1871年3月18日からわずか72日間しか政権を維持することができず、1871年5月28日に政府軍の激しい攻撃を受けて、3万人以上とも言われる膨大な犠牲を出しながら崩壊した。 パリ・コミューンの兵士全員が、第三共和政の政府軍によって処刑されるという悲劇的な最期を迎えた。

パリ・コミューンの歴史の概略を振り返ると、1871年3月18日にパリ市民の武装蜂起によるパリ占拠、3月26日にコミューンの議会選挙の実施、3月28日にパリ市庁舎におけるパリ・コミューンの樹立宣言が為された。パリ・コミューンのパリ統治は、3月26日〜5月20日まで続いた。

4月2日から政府軍とパリ・コミューンとの内戦が勃発したが、近代兵器や兵士の装備、食糧・兵站、軍の指示命令体系などにおいてコミューンは政府軍よりも劣っていたので、物量に勝る政府軍の攻撃を受けてコミューンは崩壊させられてしまう。コミューンに統一的な指導体制や命令体系が無かったことも不利に働いたが、コミューンが実施しようとした政策には現代の自由主義・民主主義の政治にもつながる先進的・人道的なものが多かった。

ヨーロッパ(ドイツ)の近代史に興味のある方は、[ワイマール共和国の崩壊とナチズムの台頭:1][エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』と全体主義の社会分析]の記事も合わせて読んでみてください。

posted by ESDV Words Labo at 17:15 | TrackBack(0) | ふ:心理学キーワード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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