パリ・コミューン(Paris commune)とフランスの第五共和政までの歴史
この記事は、[前回の記事]の続きになります。パリ・コミューンは、教会と国家の政教分離を宣言し、無償の義務教育制度を確立し、女性の参政権を導入し、児童の夜間労働を禁止しようとしたが、政権の統治期間が極めて短かったために、それらの政策の多くは理念的な導入に留まった。カール・マルクスは『フランスの内乱』の中で、パリ・コミューンをプロレタリアートによる社会主義政権のモデルのように描いており、史上初の(裕福なブルジョア市民層ではない)労働者や大衆による市民革命に位置づけている。
コミューンという都市国家的な共同体を、『労働者階級のための自治政府』のようにマルクスは捉えていた。カール・マルクスは社会主義革命におけるプロレタリア独裁のためには、ブルジョア市民階級ではなく労働者階級が率先・団結して立ち上がらなければならないと主張しており、パリ・コミューンをその理想に近い労働者階級・大衆層の自発的な革命政府として解釈していたのである。
パリ・コミューンは労働者階級を主体とする革命政府(自治政府)であり、直接民主主義の理想に近い共和主義政体でもあったが、『市民の市民による市民のための民主政治』をラディカルな理念と実践で実現しようとした。パリ・コミューンは、労働者の労働条件や生活状況の改善を『政治の目標』に設定しており、男女平等の参政権の導入や子どもの義務教育の実施、児童深夜労働の禁止など市民生活の向上を目指す『リベラルな政策』を実現しようともしていた。
パリ・コミューンはパリの街中に無数のバリケードを築いて、暴力的・主体的な実力行使で労働者階級による自治を確立したが、ブルジョワ市民階級(その他の一般市民)にとっては労働者・大衆の暴力は威圧的な脅威(無秩序な政治状況)でもあり、政府軍によるパリ・コミューンの解体は好意的に受け止められた面もあった。
パリ・コミューン鎮圧後の第三共和政には、共和派と王党派の対立も見られたが、その後、共和派が政権を掌握したことで共和主義的な体制の構築が強化されていく。対外的にはアフリカ諸国やアジアのインドシナに対する植民地政策を推進していき、第三共和政の時代はコロニアリズム(植民地主義)によるフランスの領土拡張や国威発揚がピークに達した時期でもあった。
1939年9月に第二次世界大戦が勃発してフランスも参戦するが、1940年6月にアドルフ・ヒトラーを総統とするナチス・ドイツにパリを占領されることになり、第三共和政は瓦解してドイツの傀儡政権としての趣きが強いヴィシー政権(1940-1944)が誕生した。第二次世界大戦がドイツ・日本など枢軸国の敗戦によって終結すると、ド・ゴール将軍を中心とする『共和国臨時政府(1944-1946)』が樹立する。
戦後のフランスは国民投票で新憲法草案を可決して『第四共和政 (1946-1958)』を確立したが、アルジェリア戦争に対する不満で軍部のクーデターの危機が高まる。そこで、軍部を統率できる影響力を持つシャルル・ド・ゴール将軍(1890-1970)が国民投票で大統領に選出され、大統領にはそれまで以上の強大な権限と命令権が付与されることになった。シャルル・ド・ゴールが強権的な政治運営する初代大統領に就任したことで、現在のフランスまで続く『第五共和政 (1958-)』がスタートすることになった。
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