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2010年11月09日

[脳死(brain death)と人間の死・生命倫理学的な課題:3]

脳死(brain death)と人間の死・生命倫理学的な課題:3

この記事は、[前回の記事]の続きになります。脳死判定の基準は『これ以上、医学的治療をしても回復・生存の可能性がない』という延命措置の限界点である『蘇生限界点』を示しているが、この蘇生限界点は医療技術の進歩によって変化するという指摘・批判もある。脳死の判定基準については、ジャーナリストの立花隆のように『脳機能の不可逆的な喪失』ではなく、より不可逆性が確実な『脳の器質的な死(脳細胞の死滅・脳への血流停止)』を判定基準に用いるべきだという意見もある。

脳死の判定と人間の死の定義、臓器移植には、『臓器売買ビジネス』を初めとして様々な生命倫理学的な問題が存在している。功利主義的な『最大多数の最大幸福の価値判断』の立場から、一人の犠牲(臓器提供)によって複数の人間の生命を救える場合には、一人の人間を強制的にドナーにすることは可能であるかというジョン・ハリス『生存のための抽選(The Survival Lottery)』というテーマもある。

だが、これは常識的に『身体・生命の自己所有権』を前提とすればナンセンスな問いであって、臓器移植は事前の本人の同意あるいは脳死後の家族の承諾が無ければ倫理的に実施することは許されないと考えるべきだろう。

ジョン・ハリスの『生存のための抽選』というのは、くじ引きに当たった人は健康な人であっても、『社会全体の利益(生存可能な人口の増加)』のために臓器提供をするドナーにならなければならないとする功利主義的な命題であるが、自分の身体や生命を自分が所有するという権利感覚は自然的かつ普遍的であるために否定することは難しい。

臓器移植が無ければ死ぬ人が複数いるとしても、それは『自然的な病死・寿命』であると判断すべきであって、その時に脳死患者のドナーがいれば臓器移植を受けられるが、そうでなければ諦める他はないというのが自然な倫理感覚であろう。『同意のない健康な他者の生命』を強制的に奪ってまで、全体の利益のために他者の生命を救う合理性・必要性はないし、それは臓器移植の生命倫理というよりは殺人の倫理問題として考えるべきだと言える。『消極的な病死・事故死』と『積極的な殺害・臓器摘出』とを倫理的に同列に並べて考えることは難しい。

初めの臓器移植法では、本人が脳死前にドナーカードで『臓器提供の意志表示』を明確にしていなければ移植できなかったが、2010年7月施行の改正臓器移植法によって、脳死前に本人が『臓器提供の拒否(否定)の意志表示』をしていない限り、家族の同意によって移植が可能になった。2010年7月に施行された改正臓器移植法では、年齢制限が撤廃されて15歳未満の子どもでも臓器提供が可能になり、本人が拒否の意志表示をしていない限りは、家族の承諾だけで臓器提供が可能となった。また、自分の臓器を家族親族に対して、優先的に提供することができるようになった。



posted by ESDV Words Labo at 21:21 | TrackBack(0) | の:心理学キーワード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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