精神分析の始祖シグムンド・フロイト(S.Freud)の共同研究者だったアルフレッド・アドラー(A.Adler)が創設した心理療法の学派がアドラー心理学(Adlerian Psychology)である。アドラーは、自身の心理学派と理論体系を『人間知(human knowledge)』と呼び、人間の心理現象を解明する限定的な心理学というよりも、人間の心理と行動全般に関する人間科学のようなものを構想していた。
ユングの心理学派の正式名称を分析心理学(analistic psychology)というように、アドラーの心理学派の正式名称を個人心理学(individual psychology)ということもあるが、一般的にはアドラー心理学と呼ばれることが多い。
アメリカ合衆国においてアドラーの後継者を自認する人たちは、アドラー心理学の目的志向性(人生・行動の目的を面接対象とする)を強調して『目的分析学(Teleoanalysis)』という名称で呼ぶこともある。目的分析学は、客観的に観察できる事実のみによって人間を理解するのではなく、客観的事実に対してどういった意味を付与するのか、どういった振る舞いを取るべきなのかという現象学的な『主観的意味づけ』を重視する。
フロイトの精神分析は、神経症を中心とする精神疾患の原因を発達早期のトラウマや発達障害に求める『原因論』を展開したが、アドラー心理学は情緒不安定な心身症状(知覚・運動・記憶障害)を示す神経症患者の過去のトラウマには余り関心を示さず、これからどのような目的課題を達成していくかの『目的論』を重視する。
アドラーは、精神分析の意識・前意識・無意識の精神構造論やエス・自我・超自我の自我構造論(心的装置理論)を認めず、人間を分割不可能な全体性を持つ個人として認識する『全体論』『一元論』の立場を取る。即ち、全体を要素(部分)の集合と見る分析的な要素還元主義の立場に対して批判的な立場であり、全体は要素(部分)の集合以上の特殊性を持つという創発性を支持するのである。個人心理学という名称にも、それ以上分割できない個人(individual)の全体性を対象として、心理学的な研究考察を行うという意味が込められている。
アドラーの心理療法では、クライエントの精神症状(身体症状)の緩和や直接的な問題解決だけでなく、将来の精神的危機やストレス状況を克服する為の『人格構造の成長』が目標とされる。精神内界の力動や記憶の分析を詳細に行う精神分析と比較すると、アドラー心理学では、より現実生活の問題に密着した対人関係の分析やコミュニケーションの改善に重点が置かれる。
アドラーは、権威的な精神分析家による指示的療法や中立的技法(分析者の中立性)には継続的なカウンセリング効果が望み難いとして、クライエントと分析家が対等な立場で向かい合うことの大切さを説き、クライエントの主体的な意志決定や積極的な人生の選択を尊重する立場を示した。また、分析家はただクライエントの話を受容的に聴き続けるだけでなく、必要な場合には積極的なアドバイスや支持的な助言をすべきだと考えるところも特徴的である。
アドラーの個人心理学(個体心理学)は、『快楽原則の軽視と“劣等性の補償(compensation)”の重視・要素還元主義ではない全体性・現象学的意味づけ・対人関係分析・実存主義的な存在の尊重』という意味において、フロイトの精神分析療法と対照的な理論体系を持っている。
アドラー心理学は、カール・ロジャーズやアブラハム・マズローらの人間性心理学(ヒューマニスティック心理学)との近縁性を持ち、自我心理学や社会精神医学などの心理学の諸潮流にも影響を与えた。積極的に助言や説得を行うアルバート・エリスの論理療法やアーロン・ベックの認知療法のアイデアとアドラー心理学の基本姿勢には類似したものがあり、どちらもクライエントの精神状態や生活行動の改善に対して能動的にアプローチしようとする。
アドラーの心理療法は、個人療法だけでなく集団療法や家族療法にも適用され、心理臨床分野の枠組みに留まらず、精神保健福祉の領域でのケースワークや行政相談の援助技術、学校教育の生徒相談(スクール・カウンセリング)などにも応用されている。