大乗仏教の唯識派では、「八識」という心の機能を想定し、外的世界に存在する事物は「識」が生み出した虚妄に過ぎないと説く。哲学的理論で唯識派(唯識,唯識論,唯識学派)を分類すると、「物理的客体は精神的主体によって生み出され、この世界の根本原理は精神(観念)である」とする「唯心論(観念論)」に分類されるが、厳密には、唯識論と唯心論は似て非なるものである。唯識論は心の存在そのものも虚妄や我執として否定し、心は「空」であると説く「一切皆空」の立場をとるので、この世界の事象を生み出す本質的原理として「心の実体性(存在)」を認める唯心論とは異なる考え方なのである。
唯識では、客観的実在としての事物・現象の存在を否定し、この世界に存在する全てのものは「心の機能(識)」が生み出したのだという基本認識を持っている。唯識の識は8つあり、これを「八識」というが、この世界にあるありとあらゆる事物を生み出す原因となった識が阿頼耶識(アラヤ識)なのである。阿頼耶識は末那識と並んで、人間の深層心理あるいは無意識に該当するので、フロイトの精神分析学の無意識概念と対象比較することも出来る。しかし、阿頼耶識のある無意識とは、この世界の全ての存在の本質的根拠がある場所で、過去から未来に至る全ての因果が収められている場所なので、フロイトの個人的無意識よりも遥かに壮大で神秘的な意味を帯びた概念である。
唯識論の起源は「西遊記」のエピソード(空想的な物語)の題材とされた玄奘(三蔵法師)が訳出編集した「成唯識論」にあるが、その原典は世親(ヴァスバンドゥ)の「唯識三十頌」である。唯識論という基本的な理論体系そのものを着想したのは、西北インドガンダーラ地方で唯識派の学僧であった無着(アサンガ)と世親(ヴァスバンドゥ)の兄弟である。無着の代表作として『摂大乗論(しょうだいじょうろん)』、世親の代表作として『唯識三十頌』『唯識二十論』『浄土論』がある。
唯識論を基盤とする1つの大乗仏教宗派を開いたのは、玄奘三蔵の弟子であった慈恩大師である。慈恩大師が開いた法相宗は、物事の存在の形式やあらゆる事物の存在根拠、存在の区分や分類を学究する唯識の宗派という意味が込められている。法相宗の基本教義を簡潔に表現すれば、「一切皆空」「諸法空相」であり、この世の中にあるありとあらゆる全ての事象は「八識」によって生み出されるが、その「八識」さえも結局は本質や実体を持たない「空」に過ぎないと考える。慈恩大師の法相宗の教えは、南都六宗の一宗派として日本に伝来したが、現在残っている法相宗の総本山は、興福寺と薬師寺の2つになっている。
八識には「1.眼識, 2.耳識, 3.鼻識, 4.舌識, 5.身識, 6.意識, 7.末那識(まなしき), 8.阿頼耶識(あらやしき)」の8つの心の機能が定義されている。眼・耳・鼻・舌・身の識というのは一般的な五感の感覚・知覚機能のことを意味していて、意識とは想起可能な意識領域の思考や解釈の心の働きのことである。
八識のうち、第七識の末那識と第八識の阿頼耶識は、意識化不可能(困難)な無意識の領域に属するものとされ、大乗仏教思想に深層心理学的な心理観を持ち込むものである。末那識とは、最も根源的な深い領域にある阿頼耶識の「見分」を原因として生じる「自我(自己)の範囲に限定された無意識・自我への執着を持った深層心理」のことである。
末那識よりも更に奥深い領域にある阿頼耶識(アラヤ識)には、「貯蔵する蔵の識」という意味があり、世界の全ての事物と人間存在を生み出す根本原因となる領域である。阿頼耶識は「貯蔵する蔵の識」という意味を持っているように、過去の行為の果(結果)となり未来の行為の因(原因)となるような「一切諸法の種子」を宿している。
「種子(しゅうじ)」とは精神機能を発現させ行動を生み出す根源的なエネルギーや原因のようなもののメタファー(隠喩)であり、種子からこの世界のありとあらゆる存在と法則が発生してくる。また外部世界へと飛び出た種子から形成される存在や事象は、阿頼耶識に印象(薫習・くんじゅう)を与えて更に新たな種子の発生を促進する。阿頼耶識と外部の対象世界は相互に作用し合っており、阿頼耶識が外部世界を認識し解釈する識を生み出せば、識によって認識される外部世界は阿頼耶識へと薫習(印象)を与えて新たな未来の因果を含んだ種子を形成させる。このような阿頼耶識(無意識)と一切諸法(外部世界・外部対象・法則)の間に働く相互作用のことを「種子薫習(しゅうじくんじゅう)」と呼んでいる。
阿頼耶識は、個人の自我領域を超越したユングの普遍的無意識を想起させるような広大無限な心の領域で、主体と客体を分離することができず阿頼耶識を客体として観察分析するようなことも出来ない。
ラベル:仏教