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2006年11月14日

[L.ビンスワンガーの現存在分析:エレン・ウェストの症例]

L.ビンスワンガーの現存在分析とM.ハイデガーの実存哲学:エレン・ウェストの症例

ルートヴィッヒ・ビンスワンガー(Ludwig Binswanger, 1881〜1966)は、S.フロイトの精神分析学の影響を強く受けたスイスの精神科医で、集合無意識を重視する分析心理学を確立したC.G.ユングとも学術的な交流があった。L.ビンスワンガーは独自の実存哲学的な精神療法として『現存在分析』を創始したが、精神分裂病(Schizophrenia)の診断基準と症状記述に関わる病理学研究に寄与したオイゲン・ブロイラー(Eugen Bleuler, 1857-1939)が院長を務めるブルクヘルツリ病院にも勤務した経験がある。

19世紀後半に、精神医療の名門として知られたチューリッヒ大学精神科のブルクヘルツリ病院では、アカデミックな実験精神医学研究を意欲的に進めるオイゲン・ブロイラー教授の下に、C.G.ユングやメダルト・ボス、ルートヴィッヒ・ビンスワンガー、ミンコフスキー、カール・ヤスパースなど優れた資質・能力を持つ俊英が集まった。『現存在分析』という思索的な精神療法と哲学的な考察を展開したルートヴィッヒ・ビンスワンガーとメダルト・ボス(Medard Boss, 1903-1990)は、人間学的精神医学の学派に分類される。彼らは、フロイトの深層心理学(無意識中心の精神分析)とマルティン・ハイデガー(Martin Heidegger, 1889-1976)の実存哲学(『存在と時間』)、エドムンド・フッサールの現象学の思想の影響を強く受けている。

“現存在(Dasein)”とは、簡潔に説明すれば、あらゆる“存在者(Seiendes)”の中で特別な位置づけを持つ“人間(human)”の存在様式のことである。世界のあらゆる存在者の中で、人間だけが存在のあり方や意味を意識的に考察できるという意味で特別であり、『自己の存在』がいずれ消滅するという“有限性(死)の概念”を持っているという意味でも特別なのである。ハイデガーは、現存在(人間)という主体的な認識者を通して、人間を含むあらゆる存在者を存在させている存在(あるということ)そのものを分析しようとした実存主義に分類される哲学者であり、現存在の本来的な性質とは、『死を志向する有限の存在であること(存在者の中で唯一、時間性を帯びていること』であると考えていた。

L.ビンスワンガーが創始した現存在分析とは、実存分析と精神分析の統合を目的とした精神医学的探求であると考えることができ、現存在である人間の存在様式や存在の意義(価値)について考察する分析的な技法・理論である。科学的な精神病理学では精神疾患の発症・経過・予後の病態について、基礎医学や神経心理学、脳科学、生理心理学などの知見を元に診断や治療を判断していく。一方、現存在分析では、エビデンス・ベースドな薬物療法や精神療法ではカバーし切れない『人間存在の意味』や『精神病者の生きる価値』といった実存主義的な側面から患者の臨床にアプローチしていくのである。

科学的な精神医学の治療では、脳の器質的病変や機能異常、身体疾患からくる症状精神病に着目して、セロトニン系ニューロンの神経伝達過程を円滑にしたり、ドーパミンの過剰な神経活動を鎮静するような向精神薬(トランキライザー)を用いて治療に当たる。しかし、現存在分析では、無意味に世界に投げ出されて(投企されて)存在させられている現存在(人間)を『世界内存在』と定義して、世界内存在の過去・現在・未来の存在様式と存在意義に着目していく。世界内部において、現存在に生きる意味や希望を与える方向へ思索と対話を深めていく。ハイデガーは、現存在が本来的なあり方を忘却して、『他人への関心や干渉』に執着している状態を『頽落(Verfallen)』と呼んだが、ビンスワンガーも『他人との関わり』ではなく『自己との関わり』の中で現存在のあり方や意味づけを分析しようとした。

ハイデガーの実存哲学では、現存在の本来的なあり方は『死へと向かう存在(Sein Zum Tode)』であるとされるが、ビンスワンガーが診療した臨床事例の中で『死へと向かう存在』である自己に自覚的に向き合った女性としてエレン・ウェストが知られている。『エレン・ウェストの症例研究(Ellen West Casework)』は、L.ビンスワンガーの著書『精神分裂病(統合失調症)』で取り上げられている。エレン・ウェストは、抑うつ神経症と肥満体形へのコンプレックスから深刻な摂食障害(神経性食欲不振症・神経性拒食症)を発症して、最終的には内的世界に渦巻く激しい混乱と葛藤に飲み込まれて、自ら命を絶ってしまう。

エレン・ウェストは、厳格で支配的だが精神的な脆弱さを併せ持つ父親と優しくて消極的だが、病的な神経質の側面を持つ母親に育てられて、情緒的に不安定で劣等コンプレックスの強い少女時代を過ごした。20代には、精力的な職業活動や積極的な社会参加をして生産的な生活を送ったが、次第に抑うつ感と将来の悲観を強め、抑うつ神経症を遷延させて摂食障害と統合失調症に近い症状を発症する。有限性に自覚的な現存在として生きようとしたエレン・ウェストは、精神病者である自己に生きる意味や価値を見出せないまま、摂食障害の症状と先行きの見えない内的葛藤に苦しみ続ける。

最終的には、『生からの意図的退却』によって、エレン・ウェストは現存在としての本来的な安楽を得ようとする。エレン・ウェストの症例は、医療行為の目的である『生命の救助』を達成できなかったという意味で、精神医療の事例としては失敗例といわざるを得ないが、精神分析療法に実存主義の視点を持ち込んだという新規性がある。L.ビンスワンガーの現存在分析は、『死へと向かう存在(生の有限性)』である『現存在』を前提としているので、人間存在の生きる価値(病気になった意味)について深遠な哲学的考察をすることができる。だが、その一方で、『最悪の結果としての死』を回避するという動機付けに乏しいことが最大の問題点といえる。

ラベル:精神医学 哲学
posted by ESDV Words Labo at 05:22 | TrackBack(0) | え:心理学キーワード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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