エリク・H・エリクソン(Erik Homburger Erikson):2
カールスルーエにあるギムナジウムのビスマルク校を卒業してから、画家を目指して芸術学院に進学したが卒業はせずに、その後、世界各地を転々と気ままに移動するヒッピーのような放浪生活へと入っていった。エリク・エリクソンは世界的にその名前と発達理論を知られるアンナ・フロイトの弟子筋に当たる精神分析家であるが、精神科医の医師免許や心理学の学位を取得するような正規の大学教育課程とは無縁のキャリア(自分探しのような放浪生活の果ての精神分析との出会い)を歩んだという特異な人物でもある。
エリク・エリクソンは既存の大学機関で精神医学・心理学・カウンセリングを学ばずに、ジークムント・フロイトが開設したウィーン精神分析研究所において国際資格となる精神分析家資格を取得した。エリク・エリクソンの『教育分析(スーパービジョン)』を担当したのは、S.フロイトの末娘であるアンナ・フロイトであり、この教育分析のセッションの中でエリクソンは複雑な生育家庭の事情やユダヤ人としての苦悩についても語ったとされる。ウィーンでは、1930年に結婚することになるカナダ人舞踏家のジョアン・セルソン(ジョーン・サーソン)との出会いもあった。
1933年にドイツでアドルフ・ヒトラーが率いる反ユダヤ人のナチスが政権を掌握すると、エリク・エリクソンはナチスの迫害を逃れてオーストリアのウィーンからデンマークのコペンハーゲンへと移住した。その後、当時ユダヤ人の保護に積極的だったアメリカへと渡っていった。1939年にはアメリカ国籍(市民権)を取得して、青少年の問題行動(非行・不登校・家庭内暴力など)を改善するための心理療法で大きな成果を上げ、成年期における自己アイデンティティ確立の道筋を示すことの大切さを実践的に示した。
エリク・エリクソンが考案した発達心理学・臨床心理学の分野の重要概念である『アイデンティティ(identity)』は、日本語では自分が何者であるかを自覚的・経験的に知る『自己同一性』と翻訳されているが、その意味は多義的で難解な部分もある。マサチューセッツ州のオースティン・リッグス・センターで、自己アイデンティティ拡散の空虚感や絶望感に苦しんでいる境界例(境界性パーソナリティ障害)のクライアントの精神分析をしたことが、アイデンティティの概念を思いつくきっかけになったという。
アメリカへと移住してからは心理学の学位を持っていないにも関わらず、その精神分析や発達心理学の分野における比類なき功績が評価されて、エール大学医学部やカリフォルニア大学バークレー校、ハーバード大学心理クリニックなどで教員として勤めることになった。1950年からオースティン・リッグス・センターで青年期の心理臨床活動の実践を行い、1960年からはハーバード大学医学部で人間発達論の講座で教授を勤めた。
エリクソンのライフサイクル論の発達理論やアイデンティティの概念が世界的に知られるようになる原点となった論文は、『幼年期と社会,1955年(Childhood and Society, 1950年)』である。エリク・エリクソンの当時革新的だったライフサイクル論の生涯発達理論や自己アイデンティティの確立問題は、心理学や精神分析だけに留まらず、教育学や社会学の分野にも広範な影響を与えることになった。
この記事は、『エリク・H・エリクソン(Erik Homburger Erikson):1』の続きの内容になっています。