大槻憲二(Otsuki Kenji)
大槻憲二(Otsuki Kenji,1891-1977)は兵庫県で明治24年11月2日に生まれているが、大正から昭和の時代にかけて活躍した心理学者・文芸評論家である。文芸評論家としては雑誌『文芸日本』『新潮』などに、左派のマルキシズム文学に関する評論を書いたりしていたが、心理学者・精神分析家としてはドイツ語の語学力を縦横に発揮して、ジークムント・フロイトと直接の文通を行ったという記録も残っている。
早稲田大学の英文学部を卒業してから英語やドイツ語の語学の才覚を活かし、昭和4年〜8年にかけて、日本初となる『フロイト全集(全10巻,春陽堂)』を翻訳している。早稲田大学の大槻憲二は、昭和初期における日本の精神分析の先駆者であると同時に、S.フロイトやその精神分析の著作の優れた輸入者・紹介者でもあったが、戦後に創設された『日本精神分析学会』には入会しなかった。
1928年(昭和3年)に矢部八重吉や長谷川天溪(本名・長谷川誠也)らと共に『東京精神分析学研究所』を創設して、その研究所の所長となった。また、日本初となる『精神分析学辞典(育文社)』の編著者として名前を連ねている、1933年(昭和8年)には、精神分析の本格的な学術雑誌である『精神分析』を発刊して、晩年になるまで精力的にその刊行をし続けた。
大槻憲二自身の精神分析学的な理論仮説としては、エロス(生の本能)とタナトス(死の本能)を前提とした『生死両本能拮抗調和説』があり、大槻は人間は生存本能と同時に死に向かう本能を持っており、それらの調和によって精神状態や社会生活の秩序が保たれていると考えていた。しかし、大槻憲二は自分自身の精神分析理論を確立したというよりは、まだS.フロイトの名前も精神分析の理論も全く知られていなかった時代に、それらの知識や仮説、概念を日本に始めて紹介した人物としての功績が大きい。
大槻憲二は非常に多作な心理学者(精神分析の紹介者)・文芸評論家であり、著書は63冊、論文は931編も書き上げているのだが、『精神分析の入門書・解説書』だけではなく『結婚と性格』『男らしさの心理学』『愛慾心理学』『人間はどこまで正気か』『全人類への訴え 世界平和のために』などの面白くてユニークな視点を持つ著書・論文も数多く残されている。大槻憲二は昭和52年2月23日に、85歳でこの世を去っている。