ウェブとブログの検索

カスタム検索





2007年02月13日

[ルース・ベネディクトの『菊と刀――日本文化の型』]

ルース・ベネディクトの『菊と刀――日本文化の型』

外国人によって書き著された日本人論の代表作が、アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトが1946年に出版した『菊と刀――日本文化の型』である。彼女は一度も日本の土地を訪れることなく、参考文献と日系移民へのインタビューによって日本文化と日本民族の気質を深く洞察し『菊と刀』という貴重な日本文化論を書き上げた。『菊と刀』は元々アメリカ陸軍がルース・ベネディクトに委嘱したもので、西欧人とは異なる日本人固有の文化・気質を理解することで太平洋戦争後の円滑な占領統治に役立てるものであった。

ルース・ベネディクトは、アメリカ・ヨーロッパが帰属する西欧文化と日本文化を対比させて、西欧文化は自律的な『罪の文化』であるとし日本文化は他律的な『恥の文化』であると定義した。禁欲的で勤勉なイギリスのピューリタン(清教徒)が植民して建国したアメリカ合衆国では、キリスト教文明圏に特有の『人間は生まれながらに罪深い』という「罪の文化」が根付いていた。フロイトの自我構造論(心的構造論)でいう超自我(superego)が罪悪感の原因となるが、超自我は父親から受ける「去勢不安(反抗への罰則)」によって強固な心的構造へと成長していく。

母親への独占欲求と父親への敵対心が交錯するエディプスコンプレックスの経験によって、善悪を分別する超自我が形成されるが、この超自我は『悪いことをすれば、厳しく罰せられる』という内面的な規制(良心)によって機能するようになる。処罰する主体は、家庭の父親であり世界を支配する神である。一神教を敬虔に信仰している西欧人は、唯一絶対の神を信じているので、自分が悪いことをすれば神から処罰され見放されるというある種の「去勢不安」を抱えている。神の視線が、西欧文化圏の『罪の文化』の根底にはあり、誰も見ていないところで悪事を働いても、全知全能の神によって『罪に対する罰』が与えられると感じてしまうのである。

キリスト教文明圏に生きる西欧人の行動規律が『罪の文化』にあるとすれば、儒教文明圏に生きる日本人の行動規律は『恥の文化』にある。西欧人は神と一対一で向かい合って『内面的な罪悪感(罪を恐れる去勢不安)』によって自律的(自発的)に善悪を判断するが、日本人は社会(世間)の人々の視線を感じ取り『外面的な世間体(恥を恐れるプライド)』によって他律的(強制的)に善悪を判断する。日本人にとって最も重要なのは、自分がその行為を悪いと思うか否かではなく、社会生活を営む周囲の他者が『自分のことをどう評価しているか?自分のことを軽蔑したり批判していないか?』である。

日本の恥の文化や集団主義の文化(村社会の論理)では、他人がどう判断(評価)するかによって自分の行動の是非を決められてしまう人が多く、日本人は恥辱を感じないで済むように世間体に強く配慮しながら自分の身の処し方を決めるのである。西欧の罪の文化や個人主義の文化では、他人が自分をどう評価するかよりも、自分の良心や道徳観に照らしてどう判断するかが重視される。最近では、日本でも自由主義と個人主義が優勢になってきているので、世間体(他人の視線や評価)を気にせずに「自分がどのように感じどのように判断するか?」と考える人が増えてきており、『菊と刀』の恥の文化のロジックに日本人を当てはめることが難しくなっている。

題名の『菊と刀』の「菊」とは「美を愛好し、俳優や芸術家を尊敬し、菊作りに秘術を尽くす」ということであり、「刀」とは「刀を崇拝し武士に最高の栄誉を帰する」ということである。「菊の優美」と「刀の殺伐」のシニカルな二項対立を浮き彫りにしている。ルース・ベネディクトは『日本人の矛盾した二面性』を象徴的に表現するために菊と刀というシンボルを選択したわけだが、『日本人は類例のないほど礼儀正しいが、同時に、この上なく不遜で尊大である』という風に日本人の二面性を文章化している。日本文化に歴史的に根付いているこの二面性・矛盾性の特徴は、東洋的な中庸の徳を実現しようとする複雑な人生のあり方をティピカルに示唆したものでもある。日本人は両極的な価値観を呈示しながら、その均衡点あるいは逸脱点(死)に独自の透徹した美学を見出したのである。

posted by ESDV Words Labo at 01:09 | TrackBack(0) | き:心理学キーワード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/33551448
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック