小此木啓吾の『ホテル家族(hotel family)』
慶応大学・東京国際大学で教鞭を取った精神科医の小此木啓吾(おこのぎけいご,1930-2003)は、日本にS.フロイトやフロイト以降の精神分析理論を体系的に分かりやすく紹介した学者・著述家として知られている。小此木啓吾は『モラトリアム人間・自己愛人間』などの概念を用いて、社会規範・世間体(他者の目線)を軽視するような“自由主義・個人主義”が隆盛を極める現代日本のような文明社会を批判的に分析する著作を何冊か上梓している。
小此木啓吾が考案した『ホテル家族(hotel family)』という概念も、著書『家庭のない家族の時代(1983)』で用いられたものであり、自分以外の家族メンバーの感情・期待・役割を軽んじる自己中心性が批判的に指摘されている。他者の心情・都合に配慮しない自己中心的な価値観や行動様式が、社会生活から家庭生活の領域にまで拡大してきたことで、『ホテル家族』のような『他の家族メンバーから自分が奉仕されることだけ(家族からのサービスや思いやりを受け取ることだけ)』を期待する家族が生まれてきたのだと小此木は述べている。
『ホテル家族』の定義は、家庭を何でも思い通りのサービスやおもてなしを受けることができる高級ホテルのような場所だと家族のそれぞれが考えている家族である。家族みんなが自分は手厚いサービスを受けて当然の『お客様』だと思い込んでいるので、思い通りにならない現実の家庭生活の中で、家族間の不満・諍いが絶えないという結果になってしまう。ホテル家族の問題点の一つは、家庭を『癒し・安らぎが得られる万能の場所』と思っていながら、誰も他の家族の癒しや安らぎのために行動しようとはしないところにある。
学校で勉強をしたり会社で仕事をしたりして家庭に帰ってくれば、『美味しい食事が準備されていて当たり前』『優しい言葉や励ましの言葉を掛けてもらって労わってもらって当たり前』『洗濯や掃除をしてもらえて当たり前』という風に、みんながそれぞれ思っている家族が『他者依存的・役割放棄的なホテル家族』なのである。家庭を安らげる休養の場所、他の家族に優しく接してもらえる場所にするためには、本来は家族のそれぞれが自分以外の他の家族のことを思いやって奉仕的な行動をしなければならないが、ホテル家族では『自分が相手にしてもらうこと』ばかりを考えるので、家族間のトラブルや不満が爆発しやすくなる。
ホテル家族には、外の世界で働いたり人付き合いをしたり勉強したりして疲れ切った家族が、『家庭内での完全な癒し・安らぎ・励まし・わがまま(決まりや常識、遠慮のないやりたい放題にできる自由)』を求めるといった側面もある。小此木啓吾は現代においてこのようなホテル家族が増大している要因として、『私生活優先主義・公共意識や世間体の衰退』を上げている。