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2013年09月28日

[ジャン=ポール・サルトル(Jean-Paul Sartre)と実存主義(existentialism):1]

ジャン=ポール・サルトル(Jean-Paul Sartre)と実存主義(existentialism):1

ジャン=ポール・サルトル(Jean-Paul Sartre,1905-1980)はフランスの哲学者・作家であり、20世紀の個人の意識のあり方と個人と社会との関わりを存在論として貫徹する『実存主義(existentialism)』の唱導者であった。J.P.サルトルが自分の講演『実存主義はヒューマニズムであるか(1945年)』で提起した『実存は本質に先立つ』というフレーズは、1950〜1960年代には人口に膾炙していた。

サルトルは『本質(所与の意味・価値・特徴)』よりも『実存(現時点のあるがままの偶有の存在とその決断による変化)』を重視した。女性の解放や従来のジェンダーに束縛されない新たな性を模索したフランスのフェミニストのシモーヌ・ド・ボーヴォワール(Simone Lucie-Ernestine-Marie-Bertrand de Beauvoir, 1908-1986)は、サルトルの『内縁の妻(法律婚に規定されない個人の自由な契約結婚の相手)』である。

シモーヌ・ド・ボーヴォワールのフェミニスト宣言として知られている『人は女に生まれるのではない、女になるのだ』という言葉は、内縁・契約結婚の夫であるサルトルの『実存は本質に先立つ(女性らしさという本質が前もってあるのではない、今そこにある自分の実存があるだけに過ぎないのだという考え方)』を下敷きにした思想の発露でもあった。

1905年にパリ16区に生まれたジャン=ポール・サルトルは、海軍将校の父の死去が原因で、わずか生後15ヶ月で母方の祖父のシャルル・シュヴァイツァー(1844-1935)に預けられた。シャルル・シュヴァイツァーはドイツ語の講義をしていた大学教授で、その甥にはノーベル平和賞を受賞した医学博士のアルベルト・シュヴァイツァーもいて、恵まれたインテリの家庭環境(ブルジョア階級の知的な教育環境)で子供時代を過ごし、1915年にはパリの名門リセのアンリ4世校リセ・ルイ=ル=グランに進学した。

しかし、1917年に転校したラ・ロシェルの高等中学校の人間関係に上手く適応することができず、母親の金を盗み出して祖父との関係が悪化したり、学校の美少女に告白して冷たく拒絶されたりするなど、人生で初めての挫折と容貌コンプレックス(美しい異性に自分を受け入れて貰えなかったという劣等感)を体験することになった。1920年に再びアンリ4世校へと戻って勉強をやり直し、1923年には作家のポール・ニザンと親交を深めて、1924年には高等師範学校(E'cole Normale Supe'rieure)にて『身体論の現象学』で著名になるモーリス・メルロー=ポンティと知己を得ている。

1927年には、友人のポール・ニザンと協力してカール・ヤスパース『精神病理学総論』のフランス語訳の校正を行って、人間の内面世界や意識の志向性についての興味を深めたという。1928年には、学業優秀なサルトルであれば合格は間違いないといわれていた哲学科のアグレガシオン(1級教員資格)の資格試験に意外にも落第してしまうが、この事が契約結婚(法律婚ではない個人契約の結婚)の相手として生涯連れ添うことになるシモーヌ・ド・ボーヴォワールとの奇跡的な出会いを生むことになる。

翌年1929年に、哲学科のアグレガシオンにサルトルは見事に主席で合格を果たすが、この試験で次席の二位だったのがシモーヌ・ド・ボーヴォワールであり、同年に早速、知的にも人間的にも惹かれあった二人は2年間の期間つきで契約結婚することに同意したという。

posted by ESDV Words Labo at 20:09 | TrackBack(0) | さ:心理学キーワード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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