ジャン=ポール・サルトル(Jean-Paul Sartre)と実存主義(existentialism):2
教員資格を取得したサルトルは、1931年から高等中学校で哲学を教える教師として働き始めたが、次第に『現象学』という哲学分野を創始したエドムンド・フッサールの先入観に囚われない意識と世界についての考え方に魅了されるようになる。ベルリンに留学してフッサールの教えを受けたりもしているが、サルトルはフッサール以外にもG.W.F.ヘーゲルやマルティン・ハイデガーに思想的な影響を受けている。
思想的に物事や世界を考える作家としての名声を高めるきっかけになったのが、1938年に発表した小説『嘔吐』である。『嘔吐』では30歳の研究者アントワーヌ・ロカンタンを主人公にして、彼が今までの人生のエピソードを回顧しながらそのあまりの無意味さ・空虚さに吐き気を覚えるというストーリーを展開して、『存在の意味』を希求せずにはいられない人間の実存形式について訴えかける作品になっている。
『自我及び人生の意味を定義する能力』が失われた現代人の苦悩がそこにはあり、『理性的・精神的な自由』が侵害され続けている現状に強い憤りを覚えているロカンタンの姿がそこにある。『あらゆる存在(自分含む存在)から滲み出る意味の希求』に対する嫌悪が物語的に示されており、ロカンタンが体験した吐き気と狂気はそこら辺りに実存する物が『無』ではなく『何者かであろうとする性質』を持っているように感じられることに由来していたのであった。
ジャン=ポール・サルトルの実存主義は、今まさにここに生きている自分自身の存在としての『実存』と何かについて志向する『意識』を中核に置いたものであり、人間の本質や自由を先験的に規定する神などは存在しないという『無神論』に立脚していた。
サルトルは講演『実存主義はヒューマニズムであるか』において、神が先験的に定めた人間の本質はなく人間はただこの世界に無意味に投企されているという『実存は本質に先立つ』というテーゼを提起した。更に人間は基本的に何をしても自由なのだが何をすべきかは神も誰も決めてくれない、人間は自由な状態から解放して貰えないという意味で、『人間は自由という刑に処せられている(人間は自らにある自由をどのように扱うかでその価値や意味が規定される)』という主張をした。
J.P.サルトルの現象学を参照した実存主義の哲学では、人間の意識について『意識は常に何ものかについての意識である(意識は何者かについての志向性を必ず持つ)』という定義が為されていて、『即自存在・即自的(etre-en-soi)』と『対自存在・対自的(e^tre-pour-soi)』という存在形式を分類している。即自存在というのは『それが有るところ(有るがまま)のもの』とする“物の存在”のことであり、対自存在というのは『それが有るところのものではなくそれが無いところのもの(自分自身に対して内省的にその意味を考えることができるもの』という“意識の存在”のことである。
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