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2013年09月28日

[ジャン=ポール・サルトル(Jean-Paul Sartre)と実存主義(existentialism):4]

ジャン=ポール・サルトル(Jean-Paul Sartre)と実存主義(existentialism):4

J.P.サルトルは第二次世界大戦で兵役に召集されてドイツ軍の捕虜にもなったが、身体障害証明の偽造に成功して、1941年に収容所から解放されることになった。サルトルの哲学的な功績とされる主著の『存在と無』は1943年に出版されたが、その副題である『現象学的存在論の試み』からはエドムンド・フッサールの現象学の影響を伺い知ることができる。サルトルの実存主義の思想哲学は、フッサールの現象学だけではなく、ジークムント・フロイトの精神分析学、マルティン・ハイデガーの実存主義哲学の影響を受けている。

1945年には、世界大戦や政治思想への関心の高まりから、シモーヌ・ド・ボーヴォワールやメルロー=ポンティらと共に思想哲学(現代思想)や政治論評を取り扱う雑誌『レ・タン・モデルヌ』を発行した。1950年以降になると、資本主義に対して批判的となりソ連のマルクス=レーニン主義への傾倒を強めていくが、マルクス主義に対して否定的なアルベール・カミュやモーリス・メルロ=ポンティとは訣別することになってしまった。

1960年には、サルトルは妻のボーヴォワールと共に、キューバ革命をゲリラ活動で支援したチェ・ゲバラと会談しており、チェ・ゲバラの『世界革命路線・人民解放のゲリラ戦線』の構想に対してサルトルは支持の意思を示した。

サルトルは単なる思弁や理屈に終わらない哲学の実践方法としての『アンガージュマン(政治参加・社会参加)』を重要視するようになり、マルクス主義や共産主義革命を支持する自身の政治的立場や社会運動の方向性を明確にしていった

。J.P.サルトルはキューバ革命をはじめとする『第三世界の民族解放運動』とその政治指導理念としてのマルクス主義を支持し、母国フランスからの独立を目指すアルジェリアの民族解放戦線(FLN)に対しても好意的であった。しかし、ソ連やコミンテルンの党員にはなっておらず無条件の共産党支持に回ったわけではない。サルトルは、ソ連の1956年のハンガリー侵攻(ハンガリー動乱)、1968年のチェコスロヴァキア侵攻(プラハの春)では、ソ連の一方的な共産党体制維持のための軍事介入を批判している。

1952年8月には、平和主義的な社会変革やヒューマニズムの理想を説くアルベール・カミュと暴力を用いた人間解放のための共産主義革命(マルクス主義の実践)を説くジャン・ポール=サルトルの間に、『カミュ=サルトル論争』が起こっている。『俯瞰的・客観的な構造主義』『実践的・主体的な実存主義』との対立も起こることになり、構造主義の祖とされるクロード・レヴィ=ストロースは、『野生の思考(1962年)』の最終章である『歴史と弁証法』の中でサルトルの『弁証法的理性批判』を厳しく批判している。

1973年以降は、斜視からの出血(失明による視力喪失)や突発的な発作症状が酷くなり、独力での執筆活動が困難になっていき、『家の馬鹿息子』という表題のギュスターヴ・フローベールの評伝の完成を断念した。『別れの儀式』では妻のボーヴォワールとの個人的な対話や思想を記録し、『いま、希望とは』の新聞連載記事ではユダヤ人の哲学者ベニ・レヴィとの哲学的かつ宗教的な対話を残していった。1980年に肺水腫によって74歳で死去したが、構造主義の哲学者として著名なミシェル・フーコーを含む約5万人の群衆が彼の死を惜しみ弔ったとされる。サルトルの遺体はパリのモンパルナス墓地に埋葬された。

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posted by ESDV Words Labo at 20:17 | TrackBack(0) | さ:心理学キーワード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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