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2014年04月08日

[パウル・ティリッヒ(Paul Tillich):2]

パウル・ティリッヒ(Paul Tillich):2

信仰的実在論の立場を取るティリッヒは『応答する神学』を主張していたが、その神学は『哲学の問いと神学の答え』という図式に基づいたものである。哲学と神学、宗教と世俗社会という二つの異質な世界の境界線を架橋して統合しようとする応答する神学の目的は、『強制の他律』『孤独の自律』を乗り越えた『最高規範の神律』へと人々を導いていくことであった。

パウル・ティリッヒ(Paul Tillich):1

ティリッヒにとって聖書の啓示は、人間の存在や生活と切り離された『永遠普遍の真理』ではなく、人間の存在・実存そのものに生得的に内蔵されている『大きな問い』に答えてくれるものであり、強制される他律の信仰や孤独に陥りやすい自律の信仰を克服する『最高規範の神律』の価値を示唆してくれるものであった。ティリッヒの宗教の定義は『究極の関わり』であり、人は何かと究極的に関わりたいという本質的な志向性を持ち、その何かから自分の存在を根底的かつ絶対的に支えられているという感覚を持ってその感覚が誰かと共有される時に『宗教』が生成されてくる。

ティリッヒにとっての神とは『私たちの存在あるいは非存在を決定するもの』であり、存在と非存在を超越した『存在の究極的根拠(存在そのもの)』であるが、有限の存在である人間はある選択をすれば他の選択が排除されるので『自律性の限界(自律から生まれる孤独)』を抜け出ることができないとされる。

人間の根源的な不安の原因は、人間の実存的な存在形式であり、具体的には『個別と普遍・流動と形式・自由と運命』といった二項対立図式の緊張・葛藤(どちらかを自律的に選べるという錯覚の思い込みから生じる迷い)から解放されることがないということである。人間の自律的な自由意思というのはある種の幻想なのだが、この自由意思の幻想に基づく選択は『本質から実存への転落』を招くことになり、これはキリスト教でいうところの『人間の原罪(アダムとイブの神からの離反による堕落)』にもつながっている。

ティリッヒは『非存在の恐怖・脅威』に常に脅かされている人間は、非存在の無に対抗して『自己を肯定する勇気』を持たなければならないと考え、その『存在への勇気』を個人として自己を肯定しようとする『個人化の勇気』と包括的部分としての自己を肯定しようとする『参与の勇気』とに分類して考えた。

非存在の無の不安・恐怖に対抗するには、有限の個人や社会ではなく、それらを超越した究極的な存在の力を信じることが必要である。ティリッヒは神と人間との人格的な交流として『個人化の勇気』を考え、存在の根底に参与しそれと同一化しようとする神秘主義の力として『参与の勇気』を考えていたが、これらの勇気は『究極的な存在との関わり』に根ざしているのである。

posted by ESDV Words Labo at 09:38 | TrackBack(0) | て:心理学キーワード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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