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2014年08月17日

[フリードリヒ・フレーベル(Friedrich Willhelm August Frobel):1]

フリードリヒ・フレーベル(Friedrich Willhelm August Frobel):1

フリードリヒ・フレーベル(Friedrich Willhelm August Frobel,1782-1852)は、ドイツのチューリンゲンに生まれた教育学者で『幼児教育の父・幼稚園(Kindergarten)の創設者』と呼ばれている。『アンパンマン』を刊行している出版社『フレーベル館』は、この幼児教育に大きな功績があるフリードリヒ・フレーベルの名前に由来したものである。

スイスの教育実践家であるヨハン・ハインリッヒ・ペスタロッチ(1746-1827)は、フランス革命期にスイスの田舎で孤児・貧民の子のための学校を設立して初等教育の充実と発展に貢献したが、F.W.A.フレーベルはこのペスタロッチの薫陶を受けて教育者を志したと言われている。

ペスタロッチの教育実践は『直観教授・自己教育・労作教育の思想』に基づいたもので、主に小学生くらいの年代の初等教育の充実が目標とされていたが、F.W.A.フレーベルはペスタロッチの教育思想を『幼児教育』の分野へと応用して発展させていったのである。プロテスタントの牧師の子であるF.W.A.フレーベルは、キリスト教の敬虔な信仰者でもあり、幼児教育の基本命題の一つを『幼児の内面心理にある神性の開発・伸長』に置いていた。

F.W.A.フレーベルは6人きょうだいの末っ子として生まれ、生後9ヶ月で母親を亡くして、4歳の頃にやってきた継母との折り合いも悪かったため、孤独で心細い幼少期を過ごすことになったのだという。この孤独な子供時代にフレーベルの心の支えになったのが、キリスト教・プロテスタントの信仰とその信仰に基づく人間として正しく生きて隣人を愛しなさいという『情操教育』であった。

伯父(実母の兄)である聖職者のホフマンが、家庭で居場所を失っているフレーベルの苦境を察したのか、10歳の時にフレーベルを引き取って育てるようになる。伯父のホフマンの愛情と学校の友人との交遊・親愛に恵まれるようになったフレーベルだったが、経済的に裕福ではなかったため、15歳からの2年間をヒルシェンベルクの林務官ヴィッツの下で林業実習生として働いて過ごした。1796年には、プロテスタントの信仰の証である堅信礼を受けている。

林業の仕事をしながら勉強も続けていたフレーベルは、1799年10月にイェーナ大学の哲学科(この時代にはフリードリヒ・シェリングが教えていた)に進学したが、学費を支払えない経済状況に陥って1801年に退学してしまった。1802年には、疎遠になっていた実父が死去している。

イェーナ大学を退学してから、バンベルクの山林局の書記、測量師の助手、農場の会計など様々な職業を転々と変わっていた。しかし、1805年23歳の時、アントン・グルーナーの紹介を受けてフランクフルト・アム・マインにあった模範学校の教師の職を得ること(当時の学校教師は大学卒の学歴要件や教員免許を必ずしも必要とせず紹介・実力で採用されることも多かった)ができた。

この模範学校で教員の仕事をしている時期に、フレーベルは教育者ペスタロッチの弟子のG.A.グルーナー(G.A.Gruner)と知り合い、自らの教育者としての使命感や意欲を高めていくことになった。1805年8月には、グルーナーの紹介を受けてイヴェルドンに行き、ペスタロッチと初めて会うことになった。1807年(25歳の時)に、フレーベルはG.A.グルーナーの助手になってイヴェルドンに趣き、約2年間にわたってペスタロッチから直接の教育方法の指導・助言を受けることができたのである。

1811年にゲッティンゲン大学に入学して教育学を学び、1812年には拠点をベルリンに移した。1813〜1814年にかけての『ドイツ解放戦争』にも一兵卒として参加しており、この従軍中に生涯に及ぶ友人・協力者になるヴィルヘルム・ミッテンドルフとハインリヒ・ランゲタールと知り合うことになった。1816年に、テューリンゲンのグリースハイムに学校を開設したが、翌1817年にカイルハウへと学校を移して、『一般ドイツ教育舎』という学校名に改称している。



posted by ESDV Words Labo at 06:08 | TrackBack(0) | ふ:心理学キーワード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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