モーリス・メルロー=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty)
モーリス・メルロー=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty,1908-1961)は、フランスの現象学・実存主義哲学を代表する哲学者で、エドムンド・フッサールの『イデーン』などの後期現象学を継承・発展させたと言われる。
モーリス・メルロー=ポンティは現象学だけではなく実存主義哲学の分野でも活躍し、1945年から1952年にかけて、ジャン・ポール・サルトルと共に実存主義の人間観を基盤に置いた政治的・文化的な社会運動を主導した。
J.P.サルトルと協力して実存主義の哲学・文学・時評を取り扱う雑誌『現代(Les TempsModernes)』を刊行したが、1952年に左派的な政治思想やマルクス主義の解釈を巡る論争からサルトルと対立して距離を置くことになった。
メルロー=ポンティーの現象学は、哲学史において対立的な概念と解釈されてきた『意識(自己の概念)』と『モノ(対象の概念)』を知覚における認識の生成と言語の次元で統合することを目指しており、『知覚の現象学(知覚の優位性の哲学)』と呼ばれている。
メルロー=ポンティーは知覚の生成作用と主体としての身体性の次元から、『意識(自己の概念)』と『モノ(対象の概念)』の二項対立的(二元論的)な図式を解消しようとしていた。
身体は『対象(モノ)』としても『主体(自分)』としてもどちらでも取り扱うことができることから、身体性の哲学は『両義性の哲学』としての側面も持っている。私の身体が対象(モノ)にも主体(自分)にもどちらにも成り得るという両義的な状態が、『私という世界認識・根源的な世界認識』につながっていくのである。
モノ(対象)の恒常的な共同認識のためには、意識・精神だけではなく知覚を可能にする“身体(眼・耳・鼻などの感覚)”が必要であることから、メルロー=ポンティーの哲学は従来の観念論・精神一元論を超えた『身体性の哲学』の境地を開いたとされる。
例えば、『りんご』を眼で知覚すれば言語で名指すことのできない『現象』を体感することになるが、『りんごという言語・記号』を知ることによって『恒常的な認識+他者との共通認識』が可能になる。メルロー=ポンティーは『言語と対象の一致』を所与の前提とは考えず、初めに現象の知覚があってその後に、『言語による恒常性・他者との共通認識』が生まれたという時系列を考えているが、このことは『言語が存在していて当たり前という前提』を持つ論理実証主義(分析哲学)やプラグマティズムへの反論にもなっている。
メルロー=ポンティーのフッサールの後期現象学の継承・発展の試みは、自分という主体を超えた『超越論的主観性』を前提にしているために、不完全な成果しか出せなかったが、彼の現象学・実存主義は『近代哲学の二元論の限界』を知覚・身体性の基盤から超越しようとするものであった。モーリス・メルロー=ポンティの主著の邦訳書には以下のようなものがある。
『行動の構造(1964)』
『知覚の現象学T・U(1967・1974)』
『眼と精神(1966)』
『見えるものと見えざるもの(原書・1964)』

