ギュスターヴ・ル・ボン(Gustave Le Bon, 1841-1931)と『群集心理』
フランスの社会心理学者ギュスターヴ・ル・ボン(Gustave Le Bon, 1841-1931)は、フランス革命の虐殺行為やナポレオン・ボナパルトの侵略戦争に賛同・協力した“群衆”を研究対象にして、心理学的視点・方法から『群衆の心理・行動の特徴』を明らかにしようとした。一人の個人でいる時には決してしないような非合理的・衝動的な行動を、群衆(集団)になるとしてしまうのはなぜなのかを、ル・ボンはフランス革命やナポレオン戦争、ローマ帝国の政治などを題材にして歴史的・実証的に分析している。
ギュスターヴ・ル・ボンのいう“群集”とは、その集団の中で全ての個人が意識的な人格・理性を完全に喪失し、管理者(場を支配する扇動者)の暗示誘導に従って行動するような人間の不合理(感情的)な集合体のことである。ル・ボンは初めに医学を学んだが、その後に心理学や人類学、物理学、考古学など様々な学術分野に広範な知的好奇心を示すようになり、社会心理学の分野の嚆矢となる『群集心理』を研究した。
ル・ボンは貴族主義・理性主義の立場から、フランス革命をはじめとする暴力的・破壊的な近代市民革命の進展に疑義と不安を表明し、『感情的・非合理的(反知性的)・衝動的・付和雷同(空気に流される)』といった特徴を持つ群衆を批判的に捉えている。ル・ボンは既存の政治体制や社会構造を集団暴力(革命)によって一気に転覆させてしまうことのある群集の持つ政治的・社会的な強制力(理性的・知的な話し合いが通じない暴走)に注目すると同時に恐れてもいた。
荘園領主のような既得権を持つ貴族主義の立場では、『競争・労働・暴力による利益の争い』は否定的に捉えられるが、19世紀は持たざる者である労働者階級(無産階級)が台頭してきた時代であり、マルクス主義の史的唯物論では貴族階級(資本家階級)と労働者階級の利益を巡る争いが激しくなることが予見されていた。
ル・ボンは、暴力革命やその実行主体である群衆(労働者階級)を秩序と文明を破壊する危険な勢力のように捉えており、『持たざる者の抵抗・反撃(持てる者への攻撃的な追い落とし・ルサンチマン)』に対して同情することのない冷淡な筆致を示しているが、それはル・ボン自身が働かなくても食べていける裕福な貴族・富裕階層の生まれだったからだろう。
ル・ボンは否定的なニュアンスで『現代は群集の時代だ』と語ったが、ル・ボンのライバルである社会学者のタルドは『現代は公衆の時代だ』と反論したが、群衆よりも公衆のほうがより『公共的・道徳的な意識』や『知性的・理性的な判断力』が備わっているというイメージが持たれている。ただし、当時のタルド自身は、公衆もまた群衆と同じように感情的で衝動的な社会的集合体として定義していた。
ル・ボンが著した社会心理学の古典的名著である『群集心理(Psychologie des foules, 1895)』では、群集の心理的・行動的な特徴として以下のような点を上げている。
1.道徳性・知性の低下……群集の一人になった個人の道徳規範は『責任意識の分散・匿名性』によって著しく低くなり、自分の知識と判断で物事を考えなくなるので『知性の低下』の弊害も起こってくる。周囲の誰かが暴力的な言動をはじめると、自分も無意識的に付和雷同してしまい、普段の自分よりも無責任・衝動的に暴力を振るいやすくなる。
2.被暗示性……群集の一人になると、その場の空気や勢い、扇動(メッセージ)に流されやすくなり、周囲の感情・興奮に同調するだけで自分の意識や責任で判断しなくなるので『暗示』にかかりやすくなってしまう。
3.思考の単純化……群集の一人になると、個人としての自尊心や自己規定が曖昧になってしまい、周囲の空気や勢いにただ合わせるだけの知性の低下が起こって、物事の見方や行動の基準が単純化してしまう。難しい物事を理性的かつ論理的に考えようとする意欲・態度が群集の中では損なわれてしまいやすいのである。
4.感情的・衝動的な興奮……群集の一人になると、周囲にいる人たちの喜怒哀楽や興奮が自分に伝染しやすくなり、ちょっとした刺激に対して過剰に反応して大声を出したり、反対する集団に対して怒ったり暴れたりするリスクが高くなる。
5.偏狭性・排他性……群集は『共通の敵』や『賛成できない抵抗勢力』を作り上げることによって団結心・連帯感を高める特徴があり、自分たちだけが正しいという偏狭性・排他性を持ちやすく、反対勢力との合理的な話し合いを拒むことで暴力的・衝動的に衝突するリスクが高くなる。
ル・ボンは管理者(指導者)が群集をコントロールするために用いる対人・言語のスキルとして、『断言・反復・感染』を上げている。
断言……合理的な議論・意見の交換を拒否して、自分の主張だけを大声ではっきりと一方的に分かりやすく断言してしまうこと。
反復……非合理的な断言を何度も何度も反復して繰り返すことで、聞いている人を半ば洗脳してしまうこと。
感染……群集の中にあるメッセージが正しいとかある勢力が憎いとかいう『感情的な空気・感覚』を感染させて広げていき、非合理的な世論(集団の同調圧力)を作り上げていくこと。
ル・ボンは『群集心理』以外にも、『印度の文明』『物理の進化』『民族進化の心理法則』『フランス大革命と革命の心理』などの著作を多く残している。