ピエール・ジャネのヒステリー研究:『心理自動症』と『解離』の精神病理学
フランス・パリの精神科医ピエール・ジャネ(Pierre Janet, 1859-1947)は、ヒステリーや霊媒・心霊の行為における『幻想的あるいは暗示的な心理状態』をできるだけ科学的・医学的に理解するためのモデルを考えて、『解離(dissociation)』という新たな精神状態の概念を提唱した。
フルールノアとエレーヌ・スミスのヒステリー研究1:霊媒師・心霊術師のトランス状態
フルールノアとエレーヌ・スミスのヒステリー研究2:ヒステリー(失神・妄想)と幻想的な願望充足
現代の精神医学でも解離はトラウマ(心的外傷)によって生じることのある病的な心理状態として注目されているが、解離(dissociation)というのは『統合・統一されている機能的(適応的)な心理状態』がバラバラに解体されたり機能できない程度に障害されている状態のことである。
心理的な諸機能を統合・統一することによって、より高次の適応行動が可能になるというのがピエール・ジャネの心理構造のモデルである。解離というのはそういった心理的諸機能が障害されている状態であり、意識的人格の適応性が障害されている状態のことでもある。
P.ジャネは心理的諸機能を統合して適応行動を取る創造的な働きを『高次の心理機能』と仮定し、保存(記憶)している過去の定型的な行動を繰り返すだけの働きを『低次の心理機能』と仮定した。その上で、心理的諸機能を統合するための『心的緊張力(精神の活動性・適応性の根底にあるべき緊張性)』が低下した時に、人間は人格機能が低下したり心身症状が出現したりするヒステリーを発症するのだと主張した。
ピエール・ジャネがヒステリーや精神衰弱の病態の発症・維持・経過などを研究した成果は著書『心理自動症(1889年)』にまとめられている。ジャネは無意識領域にある人格構造の一部(感情・思考・記憶など)の自動的な作用によって、それらの精神疾患が発症すると考えていたため、『心理自動症』という概念を用いてヒステリーや精神衰弱を表現していた。
ヒステリーは心理的緊張力が部分的に低下して、人格機能の一部が意識領域から切り離されて下意識(無意識)で自動的に暴走し始める『部分自動症』の精神疾患とされた。現在の不安性障害・うつ病などに相当する精神衰弱は、心理的緊張力が全般的に低下して、人格機能の全体が低下したり逸脱したりする『全自動症』として解釈された。
ジャネの構想した部分自動症や全自動症には、以下のような種類がある。
全自動症……夢遊病、交代人格障害(解離性同一性障害)、カタレプシー(緊張性障害)など。
部分自動症……自動書記、放心状態、強迫観念、幻覚や憑依、後催眠暗示など。
ピエール・ジャネは心理自動症と呼んだヒステリーや精神衰弱の根本的な原因が、下意識(無意識)に抑圧された過去の『トラウマ記憶(心的外傷記憶)』であることを初めて発見した人物でもある。更に、催眠療法によってトラウマ記憶を蘇らせてクライエント(患者)に言語化させることで、精神疾患の症状が軽減することにも気づき、こういった『率直な対話を中心とする精神療法』の発想はその後のS.フロイトの精神分析にも大きな影響を与えることになった。
P.ジャネ本人は精神疾患の原因としては、トラウマ記憶(心的外傷記憶)よりも身体医学的な原因(体質的な異常・脆弱さの要因)を重視していたが、精神疾患を発症しやすくなる体質的な異常・脆弱さのことを『変質(degeneration)』と呼んだ。
『変質』の異常さ・脆弱さに対して、強い情動体験やストレス、トラウマが加わることによって、心理的諸機能の統合能力が低下し、精神疾患の発症につながる『意識・注意(視野)の狭窄』や『観念体系の分離(意識内容の下意識への分離)』が起こってくると考えたのである。こういったピエール・ジャネのヒステリーの精神病理学研究を通して考えられた『解離』という病的精神状態の概念は、アメリカ精神医学会のDSMの診断・統計マニュアルの編纂にも変更を迫るものとなった。
DSM-Uでは、ヒステリーが『解離性ヒステリー』と『転換性ヒステリー』に分類されることになった。DSM-Vでは、解離性障害が独立した精神疾患の単位として定義されることになった。DSM-Wでは解離性障害が『解離性健忘・解離性遁走・解離性同一性障害(多重人格障害)』の3つに分類されることになり、現在でもこの解離性障害の分類・診断基準が採用された臨床行為が行われることは多い。

