ジークムント・フロイトと精神分析の歴史2:『フリースへの手紙』と性の抑圧理論
S.フロイトにとっての1887年(31歳)から1904年(48歳)の17年間は『フリース期』とも言われるが、公私にわたる親友であり自らの教育分析家のような役割を果たしてくれていた耳鼻科医のウィルヘルム・フリースに対して284通ものプライベートな手紙や論考の文章を送っていた。
ジークムント・フロイトと精神分析の歴史1:シャルコーの催眠からの離脱
この『フリースへの手紙』は邦訳書も出版されているが、S.フロイトが30〜40代の壮年期の自分の心理状態や過去の記憶の分析(自叙伝的・情緒的な内容)を赤裸々に書き綴った手紙である。精神分析学の基礎理論の発想に与えた影響も大きいため、フロイトの自己分析書でもある『フリースへの手紙』は精神分析史上の重要書簡集に位置づけられている。
フリース期(1887-1904)における手紙の交換を通した自己分析、更に権威的な性格で家父長的な強制力を感じていた父親の死を乗り越えるための『喪の仕事(mourning work)』を通して、S.フロイトは小児性欲の存在を認識して精神分析の最重要理論とされる『エディプス・コンプレックス』を発見した。
フロイトの先輩の医師で初期のヒステリー治療の共同研究者であったヨゼフ・ブロイエルは、自身が受け持った『O.アンナ嬢の症例』を通して、O.アンナ本人が談話療法(talking cure)と呼んだ『カタルシス療法(催眠カタルシス療法)』を考案している。フロイトはブロイエルが行っていた催眠療法の要素(過去の記憶を再現させるための催眠の要素)を取り除いて、1896年に患者の自発的な話題選択を尊重する『自由連想法・夢分析』を中心的な技法とした精神分析(psychoanalysis)を創始している。
精神分析を創始してから10年以上にわたって、神経症患者の臨床活動を続けたフロイトは、ヒステリーや不安神経症をはじめとする神経症の心理的原因が『性欲(反道徳的欲求)の過剰抑圧』にあると考えるようになった。ヒステリー患者の女性に多いタイプは、理想主義的な道徳観念と禁欲的な恋愛観(男女関係の認識)を持つ女性であり、『自分自身の恋愛感情・性欲の高まり』を過度に抑圧してそれがないものとして扱っていたのである。
性欲(道徳的に認めがたい欲求)と道徳的禁止との葛藤が無意識領域に抑圧されて、各種の身体症状(四肢の麻痺・失立・失声・パニック・知覚異常・疼痛など)に転換されたものがヒステリーだとされた。性愛(性欲)に対する過度の潔癖感・嫌悪感・罪悪感によって、性愛に関する欲求・観念が無意識領域に抑圧されて、『身体的な症状の表現』に置き換えられるというのが、S.フロイトの転換性ヒステリーの基本的なメカニズムになっている。
『神経科医としてのフロイト』と『精神分析家としてのフロイト』の最大の違いは、『客観的に目に見える現象・根拠』を重視するか否かにあり、精神分析家としての自己アイデンティティを確立していったフロイトは『無意識領域の精神力動(心的機能の装置のせめぎ合い)』という目に見えない現象やシステムを重要視するようになった。