呉秀三と日本の近代精神医学の歴史:2
呉秀三の理想とする精神医療は、鎖からの解放を唱えて『開放病棟(open door system)』での治療を推進しようとしたフィリップ・ピネル(P.Pinel)の考え方に近いものがあり、当時としては珍しいヒューマニスティックな患者観や治療意欲を持っていたと言われる。
特に、患者を厳しく拘束して身動きできないようにする精神医療のあり方を批判して、『医療者と看護者の養成教育の見直し+心理教育と作業療法を中心とした無拘束看護の必要性』を呉秀三は訴えており、こういったヒューマニスティックな精神医療観は松沢病院の設立にもつながっていった。1919年に、松沢病院で日本で初めてとなる本格的な作業療法を実施した精神科医が、加藤普佐次郎(かとうふさじろう,1888-1968)である。
第二次世界大戦が終わって1950年代になると、アメリカから力動精神医学・精神分析の理論や技法が日本にも輸入されるようになるが、戦前の日本では性的欲求の抑圧によって神経症の発症を説明する精神分析は『精神医学の異端・邪道』のような目で見られることのほうが多かった。
日本の大学で初めて精神分析の講義をした教授は、東北帝国大学教授の丸井清泰(まるいきよやす,1886-1953)であり、丸井清泰の門下生には古澤平作(こさわへいさく)や山村道雄(やまむらみちお)といった初期の主要な精神分析家たちが揃っていた。東北帝国大学教授の丸井清泰は、アメリカのジョンズ・ホプキンス大学に留学して、米国の精神医学会の重鎮であったアドルフ・マイヤー教授(A.Meyer)に師事した。
丸井はアメリカ留学から1919年に帰国して、東北帝国大学教授として、日本で初めてとなる体系的かつ臨床的なS.フロイトの精神分析の講義を行うことになる。丸井の弟子である古澤平作(こさわへいさく,1896-1968)は、1932年から1933年にかけてオーストリアのウィーンに留学して、R.ステルバ(R.Sterba)とP.フェダーン(P.Federn)から教育分析の指導・助言を受けている。