エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』と権威主義的パーソナリティ(サディズム・マゾヒズム)
ジョン・ロックやジャン・ジャック・ルソー、ジョン・スチュアート・ミルなどの民主的な啓蒙思想によって、自由主義や民主主義(デモクラシー)は近代国家の政治体制を動かす中心的理念となった。しかし、依存心・従属心の強い民衆は、必ずしも自由主義や民主主義に賛同するとは限らず、強大な権力を握って民衆の生活を豊かにしようとする独裁的な指導者(政府)を拒絶するとは限らない。何故なら、民衆の多くは「偉大な理想(普遍的な理念)」よりも「明日の生活(現実的な利害)」を重視するからであり、「個人の自由(主体的な人生)」よりも「家族の幸福(保護された人生)」に誘惑されやすいからである。
強力なリーダーシップを発揮できる人物(政治団体)に絶対的な権力を与えて、国民(大衆)が投影同一視の心理機制を用いれば、国民とその指導者や政治団体は心理的な同一化を起こすことになる。単一の権力や権威、イデオロギーに従属する国民同士にも強烈な連帯感と協働性が生まれるので、個人の自由を批判的に取り扱う依存的な国民が増えればファシズムへと転嫁しやすくなるのである。
権威主義(authoritarism)とは、政治的・社会的・歴史的に優越性(価値性)が認められた既存の権威や権力に無条件に従うことで利益を得ようとする考え方のことである。権威主義者は、自分より上位にあると認める社会的権威や政治的権力、支配的価値観に対して卑屈で弱腰であり、勝ち馬に乗ることを信条として『寄らば大樹の陰・長いものには巻かれろ』の格言に示される従属的な態度を取る。しかし、その一方で、自分より下位にあると考える社会的弱者・政治的マイノリティ、周縁的価値観(サブカルチャー)に対して傲慢不遜で威圧的であり、権力(財力)や権威を何も持たない社会的弱者を侮蔑している。
エーリッヒ・フロムは、「自由からの逃走」を導く性格特性として権威主義的パーソナリティ(authoritarian personality)を考えたが、権威主義に同調的なパーソナリティ(人格)は「自分の自由」よりも「権威への従属(忠誠)」を重視するのである。フロムは権威主義的パーソナリティを、「強者への服従・弱者への攻撃」を特徴とする社会病理であり病理的性格構造であるとした。個人の自由や権利を抑圧する絶対的権力を熱狂的に支持する無力な大衆は、権威主義的パーソナリティの特徴を持っており、サディズム(嗜虐性癖)やマゾヒズム(被虐性癖)の心理機制とも類縁性があるとされる。
他者の苦痛や支配に快楽を見出すサディズム(sadism)は、「実存的な孤独(他者からの疎外)」に耐えられないという意味で、自分に従属してくれるマゾヒストに依存している。自己の苦痛(侮辱)や服従に快楽を見出すマゾヒズム(masochism)も、「実存的な孤独(自由な日常)」に耐えられないという意味で、自分を支配してくれるサディストに依存している。以上のことから、サディズム(政治指導者)とマゾヒズム(大衆)に共通する特徴として、無力感・無意味感を伴う孤独状況に耐えられない依存欲求の強さを考えることができる。
「自由からの逃走(他者への自発的服従)」の原因となる「権威主義的パーソナリティ・サディズム・マゾヒズム」を持つ人たちは、「個人の自由(主体的に選択する人生)」を実現するための大きな自己責任を負うことができない。フロムは、破滅的な社会病理の様相を見せる権威主義的パーソナリティやサディズム(マゾヒズム)に誘惑されない為に、「生産的な生活・他者への愛情・個人の自由の尊重・人間性の肯定」が大切であると主張した。
個々人の幸福や自由を尊重する「人道主義的な倫理」を全体的な利益を追求する「権威主義的な理想」よりも重視したフロムは、国民一人一人が「自由からの逃走」を否定する生産的(創造的)な生活と主体的な責任感を持つことで、全体主義(個人の道具化・社会の機械化)の悲劇を回避できると考えた。依存心や逃避欲求を持つ私達は、自由主義の責任感と個人主義の孤独感に耐え切れなくなった時に、権威主義的パーソナリティを持つようになり「絶対的な権威(中心的な価値観)」や「他者との一体感(数の論理)」に従属して自分の人生の自由を放棄してしまうのである。