群集(crowd)と近代社会・資本主義:群集の果たした歴史的役割と革命
群衆批判の思想的・政治的な書物としては、オルテガ・イ・ガセットの同時代人としてフランスの政治学者アレクシ・ド・トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』やフリードリヒ・ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』『権力への意志』などがある。
ニーチェは神の死を宣言したニヒリズム(虚無主義)の思想家として知られるが、ヨーロッパ人の隷属的な群衆化に驚くと同時に嫌悪していた。トクヴィルはアメリカの群衆デモクラシーを『衆愚政治への転落危機』として警戒していた。
オルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』と社会科学の群集学の歴史
群衆(人の群れ)の普遍性は、どの時代にも群衆(群れ)がいて影響力を振るったということであり、科学文明や法規範のない部族的な未開社会においても『狩猟・儀礼・戦闘』のための群衆がいてその集合的な役割を果たしていた。古代ギリシアのポリス(都市国家)にも政治活動におけるデマゴーグ(扇動)の原因となる群衆(プレブス)がいて、古代ローマ帝国にも自立的とされたローマ市民が堕落した『パンとサーカス』を求めて群れて騒動を起こす群衆がいたとされる。
イギリスの『清教徒革命・名誉革命』においても既存の宗教や政治体制に反発する群衆の怒り・抵抗が影響していたし、近代の国民国家・国民アイデンティティーの原点とされる『フランス革命』においても貧困・飢え・圧政に苦しんで怒る第三身分(平民)の人々が群れて反乱を起こしたという『群衆の武装蜂起』の側面を無視することはできない。
市民革命は革命の政治的・理論的な指導者だけによって決行することなどはできないのであり、歴史の大きな変革・革命においては正に『革命的群衆』とでも呼ぶべき自我・自意識に拘泥しないみんなと一緒になって目的達成のために暴れて戦う群衆の存在があったのである。
もちろん、『群衆』という行動の責任を負うつもりもない有象無象の人々の集団は、革命を起こすか暴動・略奪を起こすか虐殺・犯罪を起こすのか分からない『無秩序性・暴力性・規律喪失のリスク』と常に背中合わせである。戦争を遂行する軍隊が群衆化した時には『無差別殺戮・民間人の虐待や強姦・略奪や強盗』が横行することになったし、政治的要求をするデモ活動が群衆化すればデモそっちのけで暴行や強奪、放火に逸脱してしまうこともあった。
中世ヨーロッパでペストが大流行した時期には、群衆がペストの原因をユダヤ人に求めてユダヤ人が大量虐殺されたが、こういったナチスドイツのホロコーストを彷彿とさせるユダヤ人差別・虐待の多くは群集行動として実行されることが多かったのである。中世ヨーロッパでは、ローマ・カトリックのローマ教皇の権威を錦の御旗とし、エルサレムの聖地奪還を果たすことを目的にした『十字軍』が派遣されたが、この十字軍も無規律・狂信的な群集の暴力によって『イスラム社会の侵略・強奪』という歴史的怨恨の原因を作ってしまったのである。
近代社会に膨大な数と影響力を持つ『群衆(大衆)』が誕生した要因としては、『医療の発達による乳幼児死亡率の大幅な低下・技術革新による食糧生産の増加と飢餓の克服・自由民主主義の政治イデオロギー(身分制度・奴隷制度の廃絶)・資本主義と貨幣経済の拡大』を考えることができ、それらの結果としての人口増大と人権・参政権を持つ自由な人間の増加が群衆を生み出していったのである。
資本主義と貨幣経済も『均質的・画一的な大衆社会』との相性が良い。『資本・貨幣は人を選ばない(お金を稼げるか否かは人の道徳的価値とは関係がない)』ことから、資本主義に覆われていく近代の市民社会では『自分は他者とは異なる』という精神的貴族主義や自我の独自性は抹殺され、『一律的な資本主義に適応する群衆的な人間類型』が主流を占めやすくなるのである。
資本主義と自由民主主義で運営される近代市民社会では、『万人の群衆化』が起こりやすい背景が多くあるが、21世紀になってインターネットやプライバシー概念やスマホが普及していくと、20世紀以前の大規模な群衆行動(地縁血縁の結びつきを踏まえた規模の大きさ)はあまり見られなくなり、個人と個人の小規模な結びつきや人の選り好みが前提となる『個人の時代・格差社会と貧困・少子化と無縁化』の様相が見え始めた。