ウェブとブログの検索

カスタム検索





2016年05月22日

[ヴァルター・ベンヤミンの暴力批判論2:神話的暴力と神的暴力による革命論(絶対平和論)]

ヴァルター・ベンヤミンの暴力批判論2:神話的暴力と神的暴力による革命論(絶対平和論)

ベンヤミンは法措定的暴力と法維持的暴力を『法暴力』と定義したが、この法暴力は更に『神話的暴力』とも呼び変えられる。法的・神話的な暴力の根底にある根源的暴力のことを『神的暴力(純粋暴力)』と呼んで、神的暴力(純粋暴力)は人間世界の範囲に縛られないもので、人間の領域を超越したイメージ的な暴力の源泉でもある。ベンヤミンの神話的な暴力起源論の理解は難しい。

ヴァルター・ベンヤミンの暴力批判論1:法措定的暴力と法維持的暴力

初めに神の荒ぶる声で『神的宣言』が発せられて、神と人間との間に境界線が引かれ、人間存在が偶有的に生起する『原エクリチュール』の現象が起こることによって、純粋暴力としての神的暴力も生み出されるのである。人間の領域で神的暴力(純粋暴力)が繰り返し発動されると、人間社会でも法措定的暴力による法秩序形成の動きが出てきて、『神と人の区別・法的なものと非法的なものとの区別・聖と俗の区別』などが順次行われていくことになる。

すべての経験可能な人間の暴力の背後や根源に、『神的暴力(純粋暴力)』のような人類を暴力が存在する世界に引きずり込んでいくような圧倒的な根源的な力が存在することをベンヤミンは神話的に語っているのである。人間の世界における『神話的暴力』と神の世界における『神的暴力』の違いは、以下のような概念で語られている。

神話的暴力(人為・人間の暴力)……法措定的・境界設定的・罪悪と贖罪・脅迫性・苦痛と流血と死の生々しさのある処罰

神的暴力(自然・神の暴力)……法破壊的・境界侵犯的・罪を消滅させる・衝動的・身体の苦痛や流血の生々しさを伴わない感覚

自然世界の神的暴力は特定の目的や秩序に従った法暴力を構成するわけではなく、むしろ人為的な法体系というものが自然に逆らった罪や罪の赦し、処罰、流血などを敢えて作り上げて暴力的な問題を増やしているとベンヤミンは法暴力(神話的暴力)を批判している。神的暴力というのは、人間の価値判断の尺度を超越したある種の自然現象の結末であり、根源的な暴力ではあるが人間の処罰や戦争のような血なまぐささを伴っていないのである。ベンヤミンは神的暴力を『血の匂いがしない浄化の暴力』だと述べている。

ヴァルター・ベンヤミンには左翼的なアナキストやマルクス主義者としての顔もあるので、一切の国家権力(国家暴力)や人為的暴力を廃絶することを理想としていたが、その人為的・国家的な暴力廃絶の方法論が『神的暴力(自然)による神話的暴力(人為)の廃絶』であった。神的暴力(自然)による神話的暴力(人為)の廃絶こそが、ベンヤミンにとっての『革命(evolution)』であり、ヘーゲルやマルクスの暴力革命論に対する倫理的な修正案だったのである。

ベンヤミンの暴力批判論は、『国家・法律が秩序形成の手段として行使する一切の暴力』を否定しようとする一方で、『民間の個人間で発動する殺人・傷害・いじめ・虐待などの暴力』をどのような論理で批判して否定するのかの視座に欠けているという弱点も併せ持っている。また現代の民主主義国家や福祉国家では、国家・法律の根拠に基づいて発動される全ての秩序維持のための暴力を『純粋な悪』として否定し尽くすこともまた無理なのではないかと思う。

スポンサーリンク


posted by ESDV Words Labo at 09:51 | TrackBack(0) | へ:心理学キーワード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。