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2016年05月23日

[現代の群衆社会とノイズ(騒音)の暴力の氾濫:暴力・死・他者への無関心]

現代の群衆社会とノイズ(騒音)の暴力の氾濫:暴力・死・他者への無関心

聴覚を刺激する『ノイズ(騒音)の暴力』の特徴として、『不快な視覚刺激の暴力』よりも意識して回避することが難しいということがある。見苦しい景色や不快なテレビ番組、見たくない醜悪な事物などに対しては、私たちは『視線を逸らす・目を閉じる・違うものを見る』などによって意識的に不快な視覚刺激を回避することができるが、ノイズ(騒音)の暴力は耳をふさいでいても侵入してくるので基本的に避けることが極めて困難なのである。

ミシェル・セールの『響きと怒り』とノイズの暴力論

現代社会には『無数の都市・群衆・音楽・テレビ・宣伝広告が出してくるノイズ』が充満しており、特に都市生活者は次第に『音の暴力性(聴覚の暴力的刺激)』に順応していくことになるが、これが現代社会における『様々な暴力(公害・自動車事故・労災・過労死などの非業の死)』に対する不感症の一因になっているのだという。

資本主義経済と自動車社会が発展した20世紀以降の市民社会は、『ノイズ(騒音)が渦巻く群衆社会』としての様相を呈するようになってきた。個人の自立と多様化を達成するはずの市民社会は、個人の画一化・同一化を推し進める群衆社会(無差別的群衆)に呑み込まれやすくなり、具体的な個人の個性・特異性も抑圧されやすくなる。

国家権力・法秩序の規律訓練の作用があり、更に下からは群衆の雑踏・流行の同調圧力の作用があるわけだが、ノイズ(雑音)は『権力の服従命令の声・消費促進の広告の声・政治イデオロギーの同調への声・恋愛や快楽への呼びかけの声・反社会的活動への誘惑の声』など様々な音声の形を取って、群衆となった人々を魅惑したり強制したりするのである。

聴覚を激しく刺激する『音の暴力性』に対して無関心になり不感症になるということは、『個人の苦しみを訴える声・助けを求める声』に対しても鈍感になるということであり、視点を変えれば『他者に対する共感性・支援性の欠如』をもたらす誘因にも成りかねないところがある。音の暴力性を最大限に許容する社会は、騒音との何らかの意味連関性を持つ『戦争・犯罪・事故死・公害・安楽死(尊厳死)・堕胎(人工妊娠中絶)』を見過ごす“ネクロポリス(死の社会)”としての特徴を持ちやすくなってしまうのである。

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posted by ESDV Words Labo at 15:58 | TrackBack(0) | の:心理学キーワード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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