トマス・モア『ユートピア』による理想的・宗教的な世界観:近代ユートピア思想の原点
人類の政治・経済と戦争・革命の歴史は、『ユートピア』を求めるダイナミックな物語であり果敢な挑戦でもあった。思想家・哲学者の歴史の一部も『ユートピア思想』の系譜と重なっているわけだが、人類は古代ギリシアのソクラテスやプラトンも含めて、二千年以上の長きにわたって今の現実世界にはない理想のユートピアを追い求めてきたのである。
今の現実世界や日々の生活の中にはない『理想的な世界・生活・政治経済などの仕組み』を想像力を駆使して構想・計画していくのがユートピア思想の仕事である。ユートピア思想を歴史的かつ体系的に研究した書物として知られるものとして、ドイツのマルクス主義の哲学者エルンスト・ブロッホ(Ernst Bloch、1885-1977)の『ユートピアの精神』『希望の原理 全三巻』がある。
ユダヤ人で米国に亡命したE.ブロッホは、当時の先進的な民主主義国家であったはずのワイマール共和国が、なぜナチスやヒトラーを生み出したのかというナチズム形成に関する批判的な研究も行っている。
ユートピア思想の本格的な歴史の黎明は『ルネサンス期〜近代初期』であり、イングランドの思想家・神学者トマス・モア(Thomas More,1478-1535)の『ユートピア(1516年)』がその先駆けとなった。“ユートピア(Utopia)”という言葉は『どこにも無い』という意味であり、日本語では『理想郷・桃源郷』と翻訳されることが多い。明治期の日本では、ここにはない世界といった意味でユートピアを『無何有郷(むかうのさと)』などと訳したりもした。
トマス・モアは『離婚問題・英国国教会問題』で対立したヘンリー8世にロンドン塔に幽閉されて1535年7月6日に処刑されたことから、キリスト教カトリックの殉教者としても知られている。ヘンリー8世はイスパニア王女カザリンと結婚していたが、カザリンの侍女アン・ブーリンに惚れて離婚した。トマス・モアは原則として離婚を認めないローマ・カトリックの立場に立って、ヘンリー8世のアン・ブーリンとの無節操な再婚に反対して結婚式に出席しなかった。
ヘンリー8世は離婚を認めないローマ・カトリックから分離して、イングランドに独自の英国国教会を設立した。更にヘンリー8世は英国国教会に『首長令』を出して、イングランドの国王自らが英国国教会の首長になることを命じたが、トマス・モアはこの首長令にも逆らって反対したために、ロンドン塔に幽閉されて処刑されることになってしまったのである。
トマス・モアは1515〜1516年にラテン語で『ユートピア』を執筆したが、友人のデシデリウス・エラスムスの『痴愚神礼讃』やアメリカ大陸発見のアメリゴ・ヴェスプッチの旅行記『新世界』に触発されて書かれたとも言われている。全2巻の『ユートピア』はヒュトロダエウスという人物の見聞を聞く体裁になっており、第1巻でイングランドの政治・信仰の現状を批判して、第2巻で赤道の南にあるユートピア国の政治経済の制度や生活習慣などを描写している。
トマス・モアの『ユートピア』に示される世界は、欠点のない完全な理想社会というわけではないが、敬虔なキリスト者としてのモアの理想像が描かれており、ユートピアは自然状態を規律する自然法(神の法)の正義という観念に支えられている。T.モア自身が考えていたユートピア執筆の構想は、想像上の世界の仕組みを呈示することで、イングランドとは違った利点のある政治思想を紹介して、ヨーロッパが陥っている各種の政治・社会の問題を改めて議論するための叩き台にすることだったとも言われる。
トマス・モアが想像した宗教的ユートピアは、私有財産と貨幣制度が禁止され、すべての国民が労働の義務を負う共産主義社会のような世界であり、質素・倹約・勤労の道徳が広められていて信仰の自由(祈りを捧げる場所)が保障されているのだという。現代の私たちから見ればトマス・モアが夢想したユートピアはそれほど理想的なものだとは言えないが、当時のイングランドの政治・社会の問題を踏まえた一つの宗教的な理想郷のモデルではあったのである。