セルジュ・モスコヴィッシ(Serge Moscovici)の『群衆の時代』と自由論:西欧的デモクラシー(民主主義)と専制主義
基本的人権の尊重や結果の一定の平等(財の再配分)を導こうとする『政治権力による自由=積極的自由』は、時に集団全体の目的や利益のために『個人の自由の剥奪・制限』を引き起こすことがある。つまり、積極的自由という言葉とは裏腹に、『不自由な専制主義・抑圧体制』を正当化してしまうリスクを併せ持っているのである。
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ルーマニア出身のフランスの社会心理学者であるセルジュ・モスコヴィッシ(Serge Moscovici, 1925-2014)は、著書『群衆の時代』の中で、西欧的デモクラシー(民主主義)が西欧的専制主義に転換する危険性について指摘している。
理性的な自由でもある『積極的自由(権力による自由や権利の実現)』は、個人を抑圧する不自由(正しい全体主義的な政策に個人を従属させる)へと容易に転換する。それと同じように、『選挙の多数決』を意思決定原理として採用するデモクラシー(民主主義)もまた、群衆の感情・利害の対立によって反対者(秩序紊乱の同意しない者)を黙らせるための専制主義へと堕落してしまう危険性を内包しているとモスコヴィッシは語る。
近代市民社会とデモクラシー(民主主義)は必然的に『自由主義(個人の自由・消極的自由)』と結びつくものではない。近代市民社会や都市文明の『個人間の精神的・空間的な距離の近さ』によって『個人間の自由と権利の対立』が深まり、デモクラシー(民主主義)で優位に立つマジョリティー(多数派)が自分たちの自由と権利を防衛するためにむしろ、個人の自由を侵害する『専制主義・全体主義』を要請してしまうことがあるのである。
西欧的民主主義(デモクラシー)が群衆の時代の熱狂と願望によって、自己破滅的に専制主義・全体主義へと堕落してしまった歴史的事例としては『アドルフ・ヒトラーへの全権委任によるナチスドイツのナチズム(ファシズム)』が最も有名であるが、それ以外にも『ナポレオン体制(ナポレオンの皇帝戴冠)・ソ連のスターリニズム(政治犯拘束の収容所列島化)・戦後フランスのドゴール体制』などもデモクラシーの専制主義的な変質であろう。
人間の自由論・自由主義の原点は、何者からも支配や強制を受けずに自分のやりたいようにやれるという『消極的自由』であるが、現実世界で消極的自由の実現を徹底的あるいはロジカルに突き詰めていけば『他者の消去』か『自己の消滅(自殺)』以外の手段はないようにも思える。
政治思想や政治哲学の目的は『人間の自由の実現』であるが、この人類社会の歴史的な難問を解くためには『個人主義と集団主義の原理的な矛盾(両立不可能性)』を踏まえた上で、その自由とは何なのかという『定義の問題』、定義された自由をどのように実現することができるのかの『手段の問題』、人間はどのような自由を手に入れた時に最も自己実現的な実感や満足を得られるのかの『人間本性の考察の問題』などを実際的に考えていかなければならないのだろう。