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2007年07月22日

[現象学(phenomenology):E.フッサールの超越論的現象学]

現象学(phenomenology):E.フッサールの超越論的現象学

哲学史においてE.フッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl, 1859-1938)は、客観的な観察・実験によって事実の有無(理論の正否)を確認する自然科学を『精密学』と呼び、主観的な意識・直感によって事実の本質(事象の根源)に確実にアプローチしようとする現象学を『厳密学』と呼んだ。フッサールの哲学の課題は、現象学を『存在するもの(“ある”もの)の本質』を普遍的・一般的に認識することができる『厳密学』として確立することであったが、フッサールはその手段として先入観や既成概念を排除した『純粋な認識(直観)』を用いようとした。

E.フッサールは、客観世界を経験的に認識することでは『現象の本質』を認識することは出来ず、本質直観によって『経験的な不純物』を排除(エポケー)した先験的な認識によって『現象の本質』にアプローチできると考えた。『客観世界の本質(実在)』を後天的な経験や知識に捉われずに、メタ次元(超越論的な次元)から先験的に直観しようとするE.フッサールの現象学は『超越論的現象学』と呼ばれている。

超越論的とは『自己の有限性・限界性・相対性』を認識した上で、その自己の限界をメタ次元から超越しようとする試みのことであり、具体的に説明すると『現実世界の自己の立場や属性』を考えずに『一般的・普遍的・根本的な思想的態度』を取ることを意味している。簡単にまとめれば、『自分だけにしか通用しない個別的な事情・立場・属性』といった経験的な事柄に左右されずに、『誰にでも通用する一般的・普遍的・絶対的な立場』に立って物事を考えようとする態度のことを『超越論的』と言うのである。

経験的に獲得される『不純物(先入観・偏見・固定観念・既成概念)』を排除して、純粋な認識機能によって『事象そのものの本質』を直観しようとする態度をフッサールは『エポケー(判断停止)』と呼んでいる。主観的な意識や直感は、客観世界で共有される常識や偏見をエポケー(判断停止)することによって、『事象そのもの』の先験的な本質へと接近できるようになるのである。

感覚的直観である『知覚(perception)』『偶然的・一時的・相対的な現象界(不完全な現実の事象)』を直接的に見ているに過ぎない。そこで、E.フッサールは『事象の本質(必然的・永続的・普遍的な現象の本質)』を認識するための直観を『本質直観』と呼んで、偶然的・個別的なその場限りの知覚(感覚的直観)から区別した。

『経験的・理性的な特異的条件』を排除するエポケーによって先験的な普遍的究極的認識に到達しようとする方法論のことを、『先験的還元』と呼び、意識の本質的な指向性を重視する現象学では『ノエマ(意識される指向対象)』と『ノエシス(意識する指向作用)』を区分して考える。インマヌエル・カントの先験的観念論の立場に立つE.フッサールの超越論的現象学では、『事象の意味』を構成する先験的な自我機能である『ノエシス』が重視されている。複数の人間の『主観的なノエシス』が相互作用する間主観性によって『現象世界の客観性(認識の普遍性)』が保証されることになり、E.フッサールは先験的な自我機能(ノエシス)が無数に存在する客観世界を『生世界』と呼んだ。

しかし、現象学が論理的に陥ってしまうアポリア(難問)として、『主観的・先験的な意識作用(ノエシス)』から出発する生世界において、『他者』や『客観性』を主観的意識の外部から認識することが不可能という問題がある。『各自の意識世界(独我論的世界)』の外部(客観)について現象学では直観的かつ観念的にしか語れないという欠点があり、主観と主観の間の共通了解事項を確定する『相互主観性(間主観性)』をどのように具体的に定義していくかが課題となっている。

20世紀の哲学の新たな思潮となった現象学は、実存哲学のマルティン・ハイデッガーやジャン・ポール・サルトル、モーリス・メルロ=ポンティらに大きな思想的影響を与え、社会・思想・芸術・文学・政治の分野でも現象学的な認識論が応用されることが多く見られた。

posted by ESDV Words Labo at 21:27 | TrackBack(0) | け:心理学キーワード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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