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2007年08月10日

[C.W.ミルズのパワーエリート(権力エリート, power elite)]

C.W.ミルズのパワーエリート(権力エリート, power elite)

社会学者C.W.ミルズ(C.W.Mills, 1916-1962)は、20世紀初頭、アメリカ合衆国の大衆社会の権力構造を解明するために「パワーエリート」(1956)を出版した。「パワーエリート(権力エリート)」とは、他者を従属させる各分野の権力を独占する少数のエリート支配階層のことである。C.W.ミルズは自由と平等を基調とするアメリカのような民主主義社会においても「少数指導体制(寡頭体制)」によって政治・経済・軍事が動かされていることを批判的に指摘した。自由で平等な個人という建前がある民主主義社会でなぜ、権力・財力・軍事力が「一部のパワーエリート集団」に独占されてしまうのだろうかという批判的な問題意識がC.W.ミルズにはあった。

インターネット(ウェブ)が普及した現代では、情報・知識・ノウハウをアカデミズムやマスメディアが独占するというようなパワーエリートのシステムは崩れかけているが、未だ政治権力や経済的な富は「財界・官界・政界のパワーエリート」に独占され「無数の大衆が持つパワー」は相対的に小さくなっている。C.W.ミルズが著述活動を行っていた時代は、アメリカの大衆文化が普及し労働者を中核とする大衆社会が肥大した時代である。そのため、ミルズは政治や経済の中枢から切り離された大衆社会の形成が、パワーエリートへの権力と財力の「寡頭的な集中」をもたらしたと考え、アメリカ社会を「頂点階層(パワーエリート)・中間階層・底辺階層」のヒエラルキー構造として認識している。

ヒエラルキー構造(序列階層構造)のトップに君臨して「政治的・経済的・軍事的な権力」を少数集団で独占しているのがパワーエリートである。政治経済的な問題に無関心で、安価な娯楽と遊興で満足している「大衆層(中間・底辺)」は、パワーエリート階層との流動性がほとんどなく、アメリカ民主主義社会においてもある種の階級社会が形成されていることにミルズは気づいた。

つまり、自由で平等な大衆社会、アメリカンドリームによる階層移動を持てはやすアメリカ社会にも、厳然とした「権力のヒエラルキー」が存在していて、そのヒエラルキー内部の人材の流動性はそれほど高くないというわけである。アメリカ国民が主権者であるはずのアメリカ合衆国の「政治・経済・軍事の意志決定」は、実際には、少数のパワーエリート集団によって行われていて、「数の上で優位な大衆」はますます無力化してパワーから切り離されていっている。

C.W.ミルズは、国家・行政・企業・軍事などの諸分野で「構造的な権力(power)の集中」が起き、「社会資源(所得・資本・生産・消費)の適正な再分配」はますます難しくなっているが、それは、パワーエリートの知性・能力・資質が圧倒的に優れているからという「優勝劣敗の相対的競争の結果」ではないとする。

つまり、個別的な人材の能力や知性、才能などの差異によって、権力や財力が公正に分配されているのではなく、「政治的・経済的な制度設計(キャリア)あるいは利権構造」によって不可逆的な階層分化が起こっているということである。例えば、幾ら優秀な頭脳を持っていてコミュニケーションスキルが高い人でも、然るべき年齢で然るべき公的キャリアを踏んでいなければ、アメリカ政府の高官や有力者になることは出来ないというように、「個別的な能力・実力」だけでは階層移動できないケースが多くあるということを示唆している。

アメリカ合衆国の建国後暫くの間は、「地方分権的な政治システム」が有効に機能していたが、大衆社会(大衆娯楽)の発達と社会制度(キャリアパスや専門家制度)の整備によって「中央集権的な政治システム」が価値多元的な政治機構を呑み込んでしまったのである。C.W.ミルズのパワーエリート論は、社会学の始祖マックス・ヴェーバー「少数支配の原理」やロベルト・ミヘルスの「寡頭制の鉄則」と同一の支配構造を示唆したものであるが、一見リベラルで平等に見える大衆文化社会の中に潜む「中央集権的・制度設計的なパワーの一極集中」を指摘したところにミルズの功績がある。中央集権的な「パワーエリート」の対義語として、多極分散的(自律分散的)な「価値多元主義・文化相対主義」などを想定することができる。



ラベル:政治学 社会学
posted by ESDV Words Labo at 05:44 | TrackBack(0) | け:心理学キーワード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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