精神分析のリビドー発達論と口愛期性格(oral character)
S.フロイトの精神分析学の精神発達論は、心のエネルギーの仮想概念である“リビドー(libido, 性的欲動)”を前提としており、リビドー発達論と性格論が密接に結びついている。リビドーとは、人間の精神活動や行動意欲を規定する「心的エネルギー」であり、無意識領域の本能的欲求にも備給されている。リビドーは、客観的に観察可能な科学的概念ではなく、人間の精神の機能や発達を合理的に説明するための仮想概念である。リビドーは性的欲動や性的エネルギーと翻訳されるが、それは精神分析学では人間の行動や意欲の源泉が「性的本能(エス)」にあると考えられているからであり、リビドーが直接的に異性(同性)に対する性欲を意味しているわけではない。また、リビドーには生体恒常性(ホメオスタシス)のバランスを取るという生物学的な機能が前提されている。
精神分析学のリビドー発達論には、以下のような発達段階(developmental stage)があるが、それらはリビドーが向けられる身体部位によって規定されている。リビドー(性的欲動)が向けられる部位とは、端的に言うと、「感覚的な快」を感じる部位のことであるが、「(無意識的な)感覚的な快」と「(意識的な)性的な快楽」とは異なるので注意が必要である。俗説で言われる幼児性欲は、乳幼児でも性的な快楽への欲求(性への意識的な関心・欲求)を持っているという意味合いを帯びているが、リビドー発達論を理論的背景におく「幼児性欲」とは、「物理的(感覚的)な刺激による快感」への無意識的な指向性のことに過ぎず、意識的なエロティシズムを含むものではない。
精神分析学のリビドー発達論の発達段階
1.口唇期(oral stage:0歳〜1歳半頃まで)……口腔粘膜や口唇、舌によって感覚的な快を感じる年齢段階で、「基本的信頼感」の獲得が発達課題となるが、乳房を吸う行動は「愛着(J.M.ボウルビィ)」に基づく本能的行動である。「栄養・愛情の供給源」である母親の乳房に対して「分裂(splitting)」の防衛機制(メラニー・クライン)を用いる段階で、「良い乳房」と「悪い乳房」を完全に分けて悪い乳房を攻撃する傾向が見られるが、これをメラニー・クラインは「妄想‐分裂ポジション」の発達段階と呼んだ。口愛期にリビドーが固着すると、情緒的な依存性や口唇的な嗜好性(食事・喫煙・飲酒)が強い「口愛期性格」が見られることになる。
2.肛門期(anal stage:1歳半〜3歳頃まで)……排泄時の肛門部位によって感覚的な快を感じる年齢段階で、「自律性」の獲得が発達課題となるが、不適切に自尊心を傷つけたり体罰を振るったりするトイレット・トレーニングをすると「恥(自己否定)・自分の能力への疑惑」が強まってしまう。肛門期はプライバシーの感覚や排泄にまつわる自己有能感を高める時期であり、この発達段階で問題が起こると「強迫性障害(強迫神経症)」が発症しやすくなると精神分析では考える。肛門期にリビドーが固着すると、几帳面・頑固・吝嗇(ケチ)・規則正しい・秩序志向・強迫的などの特徴を持つ「肛門期性格」が見られることになる。「
3.男根期(phallic stage:4歳〜6歳頃まで)あるいはエディプス期(Oedipal stage)……リビドーが性器に向けられる時期で、性器部位における感覚的な快に目覚めることで「性同一性(生物学的な性差の自認)」が確立していく。性同一性の自覚に合わせて、帰属する文化様式や性道徳、礼儀作法などに適応した「ジェンダー(社会的性差, 男らしさ・女らしさ)」を身に付けていくことになる。S.フロイトは、異性の親に性的欲求や愛情を抱き、同性の親に敵対心や憎悪を抱く「エディプス・コンプレックス」の認識とその克服が、「健全な精神発達のプロセス」に重要な意味を持つと考えた。エディプス・コンプレックスの克服は「内部に閉じた家族間の関係」から「外部に開いた社会的な関係」への発達を意味するものであり、男根期の発達課題は「性同一性の自覚(性自認)」と「外部に向かう積極性の獲得(エディプス・コンプレックスの克服)」である。男根期にリビドーが固着すると、自己中心的・情緒不安定・自己顕示的・操作的・演技的・衝動的・依存的・気分屋・怒りっぽさなどの特徴を持つ「ヒステリー性格」が見られることになる。
4.潜伏期(latent stage:6歳〜12歳頃まで)……異性への関心という意味でのリビドーが抑圧される発達段階という意味で、小学校時代に該当する児童期は「潜伏期」と呼ばれている。この発達段階では、異性への性的欲求や親愛欲求が抑圧されやすく、「同性の友人」と一緒に過ごす時間が長くなり、勉強やスポーツ・工作などへの勤勉な態度が見られやすい。学校の集団活動における勉強や遊びを通して、「勉強・スポーツ・友達関係・芸術」など自分の好きな事柄や得意な分野を見つけていく時期でもある。いろいろな友人関係の中で懸命に競い合ったり助け合ったりする経験が、その後の社会生活への適応にとって役立つことになり、集団の中での自己主張や他者への思いやりを学習することにつながる。
5.性器期(genital stage:12歳以降の青年期)……それまで「口唇・肛門・身体部位」などの「部分性欲」で表現されていた性的欲求が統裁(統合)されて、異性の性器との結合を求める「性器性欲」へと発達する。男性も女性も性的成熟を実現して、適切なパートナーを見つけることが出来れば、相互尊重(相互信頼)に基づく建設的な充実した異性関係(恋愛・結婚)を持つようになることが出来る。従来の精神分析では、思春期から青年期へと至る性器期までで精神発達過程の記述が終わっているが、現実の人間の精神発達は性器期以降にも複雑で微妙な変化をし続けていき、中年期や老年期にもそれぞれ「発達上の危機や不安定」が見られることになる、性器期の発達課題は「自己アイデンティティの確立」であり、「自分とは一体何ものであるのか?」というアイデンティティの問題は、生涯にわたって確認(自覚)し続けなければならない問題である。
精神分析学のリビドー発達論に基づく性格特徴について上記で説明しているが、性格的な傾向・特性は各発達段階への「リビドーの退行・固着」によって規定されてくることになる。口愛期(口唇期)へのリビドーの退行・固着によって発生する口愛期性格については、フロイトの弟子のK.アブラハムが関心を持って研究を進めたが、「過度の愛情欲求・病的な依存性・他者への同一化による異常な世話好き(奉仕欲求・自己犠牲)」などを特徴とする。
口愛期性格を簡単に表現すると、他者の言動によって過敏に影響を受けやすい性格であり、発達早期に生起する「見捨てられ不安」を病的に持続させているために、「能動的な依存欲求」や「受動的な自己犠牲(同一化による奉仕)」によって相手の自由や行動を制限しやすい。口愛期性格の改善をするためには、「精神的に安心・満足できる生活環境」を準備して、段階的に「相手との距離感」を広げていき、孤独に対する耐性(トレランス)と精神的な自律性を高めることが必要になってくる。