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2008年03月27日

[精神分析の自我(ego, Ich)と自我境界(ego boundary)]

精神分析の自我(ego, Ich)と自我境界(ego boundary)

精神分析学の創始者ジークムント・フロイト(S.Freud, 1856-1939)は、前期の精神構造論と後期の自我構造論を提示して、人間の精神構造と心理機能の概観を説明した。精神構造論は、人間の心(精神)を『意識・前意識・無意識』の三層構造で理解するもので、失錯行為や夢分析に代表される『無意識(unconscious)の発見』が精神分析の最大の功績であるとも言われる。意識とは『今現在の心の中にある内容(感情・思考・知覚・意志・イメージ)』が存在する場所・領域であり、意識の中心に『自我(ego,ドイツ語のIch)』があると考えられている。前意識とは『意図的に思い出そうとすれば思い出すことの出来る内容』が保存されている場所・領域であり、無意識よりも表層的な構造でありアクセスしやすい場所である。

無意識とは日常生活の中でアクセスされることのない『心の奥深い領域』であり、『意図的に思い出そうとしても思い出すことのできない記憶・欲求・感情』が保存されている場所と考えられている。フロイトの神経症の発症機序を説明する精神病理学では、『意識したくない自我を傷つける欲求・感情・心的外傷』が無意識領域に抑圧されることで、無意識的欲求が各種の神経症症状に転換されると考えた。現代的な精神医学では、こういった無意識的欲求の身体症状・精神症状への転換を転換性障害身体表現性障害として理解しているが、自我(自分)を傷つける不快な感情や苦痛な記憶を心に溜め込むと、一般的にストレス過剰となりメンタルヘルスが悪化することになる。

前期の精神構造論に対して後期の自我構造論は、人間の心的装置(精神機能を担当する各部分)を『エス(es)・自我(ego)・超自我(superego)』の3つの部分によって把握しようとするものである。エス(es)とは人間の本能的・原始的欲望を担う心的装置であり、エスには善悪を分別する道徳的判断がなく自己と他者を区別することもない。生まれたばかりの赤ちゃんは、自他未分離な『エス(es)』の本能的欲求・原始的衝動だけを持っているが、母親をはじめとする外界(現実)との接触によって段階的に『自我(ego)』を形成していく。

4〜6歳のエディプス期(幼児期後期)になると『母親・父親・子ども』の三者関係を経験することになり、『異性の親に対する愛情(独占欲)と同性の親に対する憎悪(ライバル心)』が葛藤する不快なエディプスコンプレックスによって道徳的な『超自我(superego)』が形成されることになる。超自我はエディプス・コンプレックスを経験した子どもが、父親からの去勢不安を感じて『幼児的な全能感』を断念することによって形成されるもので、善悪を分別する倫理観・良心としての機能を果たす。

人間の自我構造を発生論的に考えると『エス→自我→超自我』の順番で形成されることになるが、『エス=本能的欲求・自我=現実認識能力と精神力動の調整・超自我=道徳的かつ良心的な命令と規範』の精神機能を担っている。『自我』は環境適応と現実対応における中心的な役割を担っており、『エス・超自我・外的要求(現実原則)のバランスを取る』という重要な精神力動の調整を行っている。人間の精神では、『〜したい・〜が欲しい』というエス、『〜しなければ、それはできない』という現実原則(外的要求)、『〜してはいけない・〜すべき』という超自我が絶えず葛藤してせめぎあっているが、それを現実的に実現可能なレベルで調整するのが『自我』の大切な役割なのである。

自我は、意識領域の中心であると同時に『心的な自分自身の存在』を直接的に指し示すものであるが、自己アイデンティティを形成する『身体・所属・所有物・他者の評価』などにも自我意識は反映されている。しかし、自我というのは観念的で抽象的なものなので、具体的な自我という対象(事物)を取り出して指し示すことはできず、『私自身の中核にある心的な主体』のことを自我と呼んでいるのである。近代哲学の始まりとなったルネ・デカルトの『方法序説』以前には、『自我意識』というものが明確に意識される機会は少なかった。しかし、デカルトの『我思うゆえに、我あり』の自我意識の明証性によって、『世界認識の起点』として自我が定義されることになった。つまり、あらゆるものの実在性や確実性を疑うことは出来ても、それを疑っている自分の意識の起点である『自我の存在』だけは否定することが出来ないということである。

また、自我がなければ『自分が自分であるという自我意識』が成立しないので、所有権や所属、職業的地位、人間関係にこだわる社会的アイデンティティが無意味となり、通常の社会生活や権利意識が成り立たなくなってしまう。自我が存在しないということは自己と他者の境界線である『自我境界(ego boundary)』が存在しないということになり、『自分の所有権』や『過去の自分と現在の自分の連続性』が失われてしまうということである。しかし、現実の社会生活では、昨日医師であったAが、今日は医師ではなくIT技術者になるということは考えられないし、自分の持ち物を他人から勝手に利用されても何も不快に思わないということは無いだろう。

社会的に共有される『自我(自分)の存在』の明証性は、「A」という名前を持ち「医師」という職業に就き、「4人家族の一員」であるという属性を持つようなAさんが、「昨日と今日の連続性」を持つことによって証明されている。もし、自我の明証性が成り立たなければ、「今日のAさん」と「昨日のAさん」の連続性が成り立たず、家に帰ってきたAさんに対して妻が「あなたなんて知らないわよ。今すぐに出て行ってください」と真顔で言われてもおかしくないということになってしまう。現実世界の秩序と規則、権利・義務の大部分は『自我意識の明証性』によって支えられており、自分にとっての自我意識(自分が自分であるという自己認識)から一貫性や連続性が失われた時には、精神疾患や健忘(記憶喪失)・認知症の発症が疑われることになる。

posted by ESDV Words Labo at 07:49 | TrackBack(0) | し:心理学キーワード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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