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2008年03月31日

[精神分析の歴史における“シュレーバー症例”と『シュレーバー回想録』]

精神分析の歴史における“シュレーバー症例”と『シュレーバー回想録』

S.フロイトの精神分析が治療対象とした妄想型(パラノイア)の精神病に近似した事例が、『シュレーバー症例』である。神経症水準の精神疾患を適応症とする精神分析療法では、精神病圏に近い症例の報告は少なく、S.フロイト自身は『感情転移が起こらない一時的ナルシシズム(自体愛)の状態にある精神病』の精神分析による治療可能性には否定的であった。フロイトは統合失調症や重度のパラノイア(偏執症・妄想病)のような精神病圏の疾患は、治療同盟(作業同盟)が確立できず的確な転移分析が行えないために、精神分析の適応疾患ではないとした。

シュレーバー症例は、ドレスデン控訴院民事部部長という高級官僚の地位にあったダニエル・パウル・シュレーバー(1842-1911)の妄想・幻覚・神秘体験(恍惚体験)を伴うパラノイア(偏執症)の症例である。D.P.シュレーバーは中年期以降の人生において、重篤な妄想・強迫観念・異常体験などを主訴とする精神疾患を発症して、三度の精神病院での入院を経験する。1911年に入院していたデーゼンの精神病院で遂に死去することになったが、1903年には、自らの名誉回復(禁治産者認定の取り消し)と精神体験の詳細な記述を目的とした『シュレーバー回想録』を出版した。父親は権威のあるライプチヒ大学の医学部教授であり、シュレーバー家が『理想的・模範的な失敗の許されない人生の生き方』を強制するエリートの家系であったことが、シュレーバー症例のパラノイアの発症に関係しているとする仮説もある。

D.P.シュレーバーは、名門ライプチヒ大学法学部を法学博士の学位を得て卒業し、ザクセン王国法務省に就職するという順調な職業キャリアを送っていた。しかし、40代の中年期に立候補した議員選挙で落選した際に、軽度の妄想を伴うヒポコンドリーを発症する。その後、迫害妄想や性愛妄想(自己の女性化妄想)、他者の実在性の懐疑、宗教的な神秘体験(恍惚体験)など多彩な妄想様観念を伴うパラノイアへと症状が悪化していった。シュレーバーの症例を妄想型統合失調症と解釈するような研究者もいるが、シュレーバー症例ではブロイラーが『4つのA(統合失調症の主要な特徴)』で示した観念連合の解体(言語・思考機能の障害)が見られず、現実吟味能力の低下も精神病圏のレベルではないと考えられている。

シュレーバー症例における妄想や幻覚はその多くが表象・観念のレベルのものであり、現実と空想(妄想)を混同して完全に現実適応能力を喪失するほどの精神病の症例とまでは断定できない要素が多い。最初のパラノイアの発症には、梅毒を告知された兄ルドルフがピストル自殺したトラウマも関係しているとする見かたもあるが、精神分析的な解釈では『幼少期の父子関係におけるエディプス・コンプレックス』が青年期以降にまで遷延したことが発症の引き金になったと見る。

42歳のパラノイア発病の時に治療を受けた医師フレックシヒからは、重症度の高いヒポコンドリー(心気妄想)と診断されており、シュレーバーは入院中に二度の自殺企図をしている。その時は短期間で回復したが、控訴院部長に昇進してハードワークに明け暮れていた51歳の時に、医師フレックシヒに対する迫害妄想や多様な妄想観念を伴うパラノイアを発症し、ブロム化合物(臭素化合物)による薬物治療を受ける。このブロム化合物による治療が、被害妄想的な症状や慢性的な恐怖感・不安感を伴う『ブロム精神病(ブロムという薬剤の副作用による精神症状)』を引き起こしたのではないかという可能性も指摘される。

三回目の発症は、母親の死亡と妻ザビーネの脳卒中をきっかけにして65歳の時に起こったが、この発症には対象喪失による悲哀感情や落胆も関係していたようである。シュレーバーの性に対する妄想には当時のドイツのジェンダー(社会的性差)も関係していると考えられ、シュレーバーは自分に乳房や女性期が備わるという『脱男性化(女性化)』の妄想的イメージ(表象)を抱いていた。S.フロイトは父親に対するエディプス・コンプレックスの固着と同性愛願望に対する適応的な防衛の失敗を指摘しているが、シュレーバーは性愛妄想だけではなく加害・被害妄想や神との神経接続など宗教的な幻覚体験を経験していた。

シュレーバーのパラノイアの原因論については、生得的な気質・性格構造による生物学的原因がまず考えられるが、精神分析的文脈では後天的な環境要因(父子関係のエディプス的葛藤・無意識的な同性愛願望・要求水準の高い権力志向)などを想定することができる。シュレーバー症例は精神医学史の中でも極めて個性的な症例であり、S.フロイトだけでなくジャック・ラカンやU.H.ピータースなど精神科医の研究対象となり、ジル・ドゥルーズなど哲学者の人間理解のための知的関心をもかきたてた。

posted by ESDV Words Labo at 15:11 | TrackBack(0) | し:心理学キーワード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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