エーリッヒ・フロムの社会的性格理論と市場的性格(marketing character)
エーリッヒ・フロム(Erich Fromm, 1900-1980)の『自由からの逃走』の項目では、社会的権威(強者)に従属して弱者への優越感を得ようとする権威主義的パーソナリティについて説明した。『大きな権威・権力』に庇護されたいと願う権威主義的パーソナリティは、個人の自由と責任からの逃走を引き起こす原因となり、自分の人生の重要な選択を他者(権威的な強者)に依存することで安心感を得ることになる。
依存心・従属性の強い権威主義的パーソナリティの人は、『実存的な孤独感・無力感』に耐えることができない脆弱なメンタリティを持つサディズム(マゾヒズム)の人と極めて良く似た人格構造を示すことがある。ファシズム(全体主義)の母体である権威主義とサディズムが結合したときに社会的マイノリティへの攻撃(政治的弾圧)が起こりやすくなり、マゾヒズムと結合したときには政治権力への盲目的で無批判な従属(翼賛体制)が起こりやすくなる。
新フロイト派に分類されるエーリッヒ・フロムは、権威主義的パーソナリティ以外にも社会心理学的な性格理論を提起しており、社会構造(政治・経済体制)と性格構造の相関関係に注目していた。エーリッヒ・フロムはフロイト左派とも呼ばれ、共産主義社会の確立を目指すマルクス主義(マルキシズム)の影響を強く受けていたが、フロムは資本主義的な経済システム(財の配分システム)が個人の性格構造を規定すると考えた。これはカール・マルクスの『下部構造(経済生活)が上部構造(政治・思想)を規定する』というテーゼに基づく社会的性格理論であり、フロムはマルクス主義的な経済重視の世界観から『受容的性格・貯蔵的性格・搾取的性格・生産的性格・市場的性格』という5つの性格類型を定義した。
フロムが定義した『受容的性格・貯蔵的性格・搾取的性格・生産的性格・市場的性格』という5つの性格類型は社会階層・経済階級と関連したものであり、労働者階級の労働を不当に搾取するとされた資本家階級の性格は搾取的性格に分類され、中流階級以上のブルジョワは金銭・利権を溜め込んで安心(保障)を獲得しようとする貯蔵的性格に分類された。受容的性格というのは、資本家(ブルジョワ)と労働者(プロレタリア)の階級闘争の結果として生まれてくる『所得格差・生活水準の違い・主従関係』を従順に受け入れて抵抗することのできない政治的従属者(権威主義者)に多いパーソナリティである。
社会構成員の大多数は『従属的な受容的性格・生活保障を求める貯蔵的性格』に分類されることが多いため、搾取的性格の資本家が支配する資本主義体制を変革することは困難であると考えられた。フロムはマルクス主義・ソ連共産主義体制などを信奉した社会主義者だったので、搾取的性格の資本家階級を否定して労働者階級が政権を独裁する共産主義革命(プロレタリア革命)の可能性に期待していた。ソ連が崩壊した冷戦終結後に共産主義革命(マルクス主義・計画経済)の現実的な有効性は否定されたが、フロムが生きた20世紀半ばの時代にはまだ史的唯物論に基づく社会主義(共産主義)の倫理的・歴史的・経済的優位性が信じられていた。現在では労働価値説や計画経済、私有財産の廃絶などを中心にするマルクス経済学が顧みられることは殆どないが、マルクス主義のヒューマニスティックな人間主義(人道的な平等思想)や批判的な政治分析(構造主義的な社会観)には若干の有効性が残っているとも言われる。
フロムが5つの性格類型の中で最も高く評価していたのは利他的な生産的性格(productive character)であり、生産的性格の持ち主は自己の能力・才能・権力を『社会全体の利益・発展』のために惜しみなく用いることができるとされた。他者の自由や権利を奪い取って他者を社会的・経済的に阻害するのが『搾取的性格』であり、他者の自由や権利を拡大して社会的・経済的な相互利益を高めていけるのが『生産的性格』である。
『市場的性格(marketing character)』とは資本主義社会の自由市場(市場経済)を支える典型的なパーソナリティであり、労働市場・商品市場の需要に合わせて自分の価値観や能力を適応的に変化させられる性格構造のことである。フロムは市場的性格を『個人の自由・尊厳』を捨て、不正な資本主義社会(権力構造・経済システム)に迎合する性格だとしてネガティブに評価したが、現実社会では市場的性格の人は高い生存適応力を持っていると考えられる。