中国の清王朝の崩壊と西欧列強の進出2:孫文の辛亥革命と毛沢東の中華人民共和国建設
「前回の記事」の続きになるが、同治帝の母・西太后(せいたいごう)の統治下において、太平天国の乱を武力で鎮圧した曾国藩(そうこくはん, 1811-1872)と李鴻章(りこうしょう, 1823-1901)の軍閥が勢力を拡大して清王朝の外交の実権を握るようになる。曽国藩・李鴻章・左宗棠・劉銘伝・張之洞ら漢人の高級官僚は『中体西用(ちゅうたいせいよう)』のスローガンを掲げて、中国の伝統文化や王朝制度を守りながら西欧の先進的な科学技術や近代兵器を導入する『洋務運動』を推進した。しかし、1881年に、対ロシアとの間でイリ条約を結んでイリ地方を失い、1884年には、インドシナ半島の植民地化を進めるフランスと『ベトナム宗主権』をかけた清仏戦争(1884-1885)を戦って敗れる。清仏戦争の敗戦によって清王朝はベトナムを含むインドシナの利権を奪われ、東アジアの中華思想・冊封体制に基づく伝統的な政治秩序を大いに揺らぐことになった。
1894年に、朝鮮半島で東学党の乱(甲午農民戦争)が起こると、清は李氏朝鮮の宗主権をかけて明治維新後の近代日本と日清戦争(1894-1895)を戦うことになるが、清はここでも敗れて『アジアの盟主』の座から転落し下関条約を結ぶことになった。李鴻章の誇る北洋艦隊が日本艦隊に敗れたことで李鴻章は一時的に失脚したが、その後、政界に復帰して義和団事件(1900-1901)の敗戦処理を請け負うことになった。李鴻章は日本との下関条約締結の際も全権大使・欽差大臣となり、『台湾割譲・李氏朝鮮の国家主権の承認(朝鮮半島の領主権の放棄)』を認めることになった。
アジアの大国と見なされていた清がアジアの小国の日本に日清戦争で敗れたのを見て、ますます西洋列強による中国大陸分割が激しさを増すことになる。1896年から1898年にかけて、満洲・モンゴル・トルキスタンをロシア、長江流域をイギリス、山東省をドイツ、福建省を日本、華南をフランスとする中国分割が同意されたが、更に、イギリスは香港の九龍半島と威海衛、フランスが広州湾、ドイツが青島(膠州湾租借地)、ロシアは旅順・大連を『租借地』として無期限で借り受けることになった。
清王朝末期に権力を掌握した西太后(1835-1908)は、『扶清滅洋(ふしんめつよう)』をスローガンに掲げる反西洋文明の『義和団の乱』を支持したが、西欧列強と日本の八ヶ国連合軍に北京・紫禁城を陥落させられ、北京議定書に調印することで莫大な賠償金の支払や領土の割譲を行うことになった。
衰微する清王朝に残された勢力復興の可能性は『王朝文化の旧弊の排除+政治・軍制の近代化の成功』しかなく、光緒帝(在位1875-1908)は保守派の西太后の影響力を排除して、若手の士大夫、康有為(こうゆうい)・梁啓超(りょうけいちょう)・譚嗣同(たんしどう)らによる『変法自強運動(戊戌の変法, 1898年4月23日〜8月6日)』を支援した。康有為・梁啓超らの変法自強運動は、日本の明治維新や立憲君主制の導入を参考にしたものだったが、西太后の引き起こした戊戌の政変のクーデターにより中途で挫折した。
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posted by ESDV Words Labo at 05:04
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