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2009年09月09日

[地域精神衛生(community mental health)と地域コミュニティにおける社会復帰支援]

地域精神衛生(community mental health)と地域コミュニティにおける社会復帰支援

地域精神衛生(community mental health)とは、地域コミュニティの“人と人のつながり”を基盤として、行政福祉の援助や心理臨床の技術も応用しながら『地域住民のメンタルヘルスの増進』を図る社会的活動のことである。個人単位の精神衛生を増進させる場合には『専門的な個人カウンセリング(個人精神療法)』が用いられることが多いが、地域社会全体の精神衛生を向上させる運動においては『日常的な地域社会の人間関係(人とのふれあい)』で支えあうことが重要視される。

精神的な健康や安らぎを高めていくために、カウンセリングや心理療法といった『専門的な対人援助』は非常に有効なものであるが、“社会生活(対人関係)への適応”と“メンタルヘルスの増進”という目的を両立させるためには『地域コミュニティにおける人間関係・相互扶助』の視点を欠かすことができない。

心身障害者や社会的弱者に対する『社会福祉的な自立支援・公的扶助』というものも、地域精神衛生と密接な関わりを持っており、[精神保健福祉士(PSW)]が精神障害者を社会福祉制度(自立支援制度)にアクセスさせる地域精神衛生の中核的な役割を担っている。

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2009年04月03日

[Z指数(Z-quotient)と知覚の恒常性]

Z指数(Z-quotient)と知覚の恒常性

R.H.ザウレス(R.H.Thouless)が考案した『Z指数(Z-quotient)』とは、知覚の恒常性のレベルを示す指標である。『知覚の恒常性(constancy)』とは、網膜・聴覚などの感覚を刺激する対象の『実際の性質(客観的な性質)』『見せ掛けの性質(主観的な性質)』とのズレを修正しようとする生理的・認知的な働きのことである。人間の知覚には『大きさ(距離)・色(明るさ)』などに対する『知覚の恒常性』が備わっており、距離や明るさの違いによって『見かけの性質』が違っていても『実際の性質』をある程度的確に推測することができる。

代表的な恒常性としては『大きさの恒常性(size constancy)』があり、観察者からの距離が変われば『見せ掛けの大きさ』も距離に応じて変わるが、観察者は視覚刺激を自動的に修正して『実際の大きさ(客観的な大きさ)』を大まかに推測することができる。

対象からの距離が遠くなれば『見せ掛けの大きさ』が小さくなっていくが、私たちは『遠くにある自動車の大きさ』を『近くにあるパソコンの大きさ』と同じものであるという風に間違った知覚をする可能性はまずないのである。この大きさの恒常性は、絵画・美術分野における『パースペクティブ(遠近法)』とも深い関係があるが、人間の視覚は距離と大きさのバランスを自動的に補正して『実際の大きさ』をある程度正しく知覚することができるのである。

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2009年01月22日

[沈黙交易(silent trade)と経済取引の起源]

沈黙交易(silent trade)と経済取引の起源

沈黙交易(silent trade)とは、対面コミュニケーションや直接の価格交渉を行わずに実施される特殊な形態の交易(物品・農作物の交換)のことである。沈黙交易には神話的側面も指摘されるが、原初的な交易形態として歴史的事実であるとされている。沈黙交易による物品・農作物の交換形態には『置き去り型』『間接交渉型』の二つの分類が観察されている。中央アフリカの熱帯雨林で生活する身長の低い狩猟採集民族のピグミーは、過去に農耕民族との間で『置き去り型』の沈黙交易をしていたと考えられている。

中央アフリカのピグミーの沈黙交易とは、熱帯雨林の傍近くにある農村に出かけていって無断で『農作物』を採集して、その農作物の代わりに『狩猟の獲物(肉)』を置いて立ち去るというものである。農耕民の立場からするといつの間にか知らない内に『農作物』を取られて、その代わりに『狩猟の獲物(肉)』が置いてあるのを発見するということになる。置き去り型の沈黙交易には『交換の交渉による同意』がなく、その交易の成立は偶発的で非意図的なものである。

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[エドワード・シルズとヴィクター・ターナーの『中心と周縁』]

エドワード・シルズとヴィクター・ターナーの『中心と周縁』

エドワード・シルズは20ページ程度の論文『中心と周縁(1961年)』において、社会構造の支配的権威と従属的大衆の関係を示すセントラル・バリュー・システム(central value system)を提起した。セントラル・バリュー・システムは『中心の価値体系』と訳されるが、『聖なる権威=中心』として支配的権威の正統性を説明し、『俗なる大衆=周縁』は中心に従属する下位階層と定義されている。

エドワード・シルズの中心の価値体系では『中心(center:センター)』『周縁(periphery:ぺリフェリー)』は対立的な図式にあり、中心は『支配的権威・上流階層・資本家階級』などを意味し、周縁は『従属的大衆・庶民階層・労働者階級』などを意味している。『象徴と社会』『儀礼の過程』の著作(邦訳書)で知られるイギリスの文化人類学者ヴィクター・ターナー(Victor Witter Turner,1920-1983)は、リミナリティの概念を用いてシルズの中心と周縁の図式に象徴的な意味を与えるきっかけを作った。

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2009年01月16日

[ミシェル・フーコーの『知の考古学』の研究方法]

ミシェル・フーコーの『知の考古学』の研究方法

フランスの哲学者ミシェル・フーコー(Michel Foucault, 1926-1984)は、権力と倫理(善悪の区別)との関係を『知(哲学・思想・科学)』の観点から分析して、各時代で支配的となる『知』には『権力』が内在すると指摘した。フーコーの著作と権力論の哲学については、[フーコーの『狂気の歴史』『監獄の誕生』『性の歴史』:規律訓練システムと生権力]の記事を読んでみてください。

『知』や『権力』は、共同体の繁栄・存続・秩序を構造的に支えるという役割を担っており、共同体の生産力を低下させたり社会秩序を乱すような属性は『異常性』として排除されることになる。ミシェル・フーコーの思想は『絶対的な真理・価値』を否定するという意味で、『神の死(真理の不在)』を宣言したフリードリヒ・ニーチェのニヒリズムの影響を受けている。

ミシェル・フーコーの研究手法は『知の考古学(知のアルケオロジー)』と言われるが、超越論的な知の考古学は伝統的な『哲学史の研究』とは対照的なものである。哲学史の研究では『歴史・理論の進歩主義的な連続性』が前提とされている。つまり、哲学史を踏まえた伝統的な研究方法では、古代ギリシアのソクラテスやプラトンから始まって、キリスト教的なトマス・アクィナスに代表される中世哲学(スコラ哲学)があり、ジョン・ロックやルネ・デカルト、インマヌエル・カントといった中世的迷妄を打ち払う近代哲学(啓蒙主義)へ進歩していくという進歩主義の見かたが採用されている。

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[フリードリヒ・ニーチェの『力への意志(ルサンチマン)』と超人思想]

フリードリヒ・ニーチェの『力への意志(ルサンチマン)』と超人思想

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche, 1844-1900)は、『神の死』を宣告してニヒリズムの到来と超克を説いた実存主義の先駆者として知られている。形而上学的な真理やキリスト教的な道徳(善悪)を破壊するフリードリヒ・ニーチェの哲学は『生の哲学』と呼ばれることもあるが、生の哲学を生成する人間の根本的な動因が『力への意志(権力への意志)』である。『力への意志』という概念がニーチェの著作で初めて使われるのは、『ツァラトゥストラはかく語りき(ツァラトゥストラはこう言った)』の第二部『自己超克について』の部分である。

ニーチェは既存の世界観や社会規範(カトリックの宗教規範)と人間存在を照らし合わせて、人間存在の序列を『超人・獅子・ラクダ』の3つに分類している。『ラクダ』とは既存社会の価値観やルールに盲目的に従属して適応するしかない人々のことであり、『獅子』とはラクダを統率できる既存社会の価値観の管理者(アドミニストレーター)のことであるが、ニーチェはラクダと獅子よりも更に高等で優秀な存在として『超人』を提示した。ニーチェの思想は『超人思想』と呼ばれることがあるように、既存の価値や社会・宗教のフレームワークに囚われずニヒリズムを超克できる『超人』を志向する思想である。

あらゆる人間には、この世界において他者に優越して自己存在を全的に肯定しようとする『力への意志』が備わっているが、大多数の人間は『自己の弱さ・劣等性』によって力への意志を断念せざるを得なくなり獅子やラクダとしての人生を生きることになる。『力への意志』を持ち続けその意志を現実世界において実現する人間が『超人』であり、超人は『現実的・物理的・精神的な強さ』によって道徳や観念に頼らずに全的に自己を肯定することができる。ニーチェは『力への意志』を抑圧することで生み出される、弱者(貧者)が強者(富者)よりも道徳的に善であるとするキリスト教的な価値観を『奴隷道徳』と呼んで否定した。

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2008年12月14日

[中ソ論争:1960年代の中国とソ連のイデオロギー対立とスターリン批判]

中ソ論争:1960年代の中国とソ連のイデオロギー対立

毛沢東の共産主義勢力が1949年に樹立した中華人民共和国と中国共産党は、1950年代半ばまでソビエト連邦(ソ連)と表面的には『一枚岩の団結』の姿勢を示してきた。この一枚岩の団結は、マルクス主義が呈示した『世界同時革命(世界規模のプロレタリアート独裁)』の理念に基づく国際共産主義運動(第三インターナショナル)を推進するためのものであったが、中国共産党は元々、ソ連主導のコミンテルン(第三インターナショナル)の活動から一定の距離を置いていた。

中国とソ連のイデオロギー対立が浮上するきっかけになったのは、1956年2月に開催された第20回党大会でソ連書記長(最高指導者)のニキータ・フルシチョフ(1894-1971)が行った『スターリン批判』『(自由主義・資本主義の西側陣営との)平和共存路線の採択』であった。フルシチョフは反対意見を持つ勢力を徹底的に粛清したヨシフ・スターリンの恐怖政治を批判して、西側陣営・東欧圏との平和共存政策を提起したが、マルクス=レーニン主義の中核理念としての『共産主義革命(世界同時革命)』を信奉する毛沢東はフルシチョフの平和共存路線には否定的であった。

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[日本の近代化の歴史と忠誠(royalty)の概念:『封建君主・藩(地方政権)・国家・企業に対する忠誠心』の推移]

日本の近代化の歴史と忠誠(royalty)の概念:『封建君主・藩(地方政権)・国家・企業に対する忠誠心』の推移

現代の日本社会では国民に対して『忠誠・忠誠心(royalty)』を求める機会は少なくなっている。しかし、四民平等が実現された近代以降の日本社会でも、アジア・太平洋戦争(大東亜戦争)において国民の国家(国体・天皇)に対する忠誠心がナショナリスティックに喚起されたように、近代国家(民族国家)と忠誠心・愛国心との間には密接な相関が見られる。『特定の権威・集団・思想(理想)』に対して人々の忠誠心(貢献・奉仕)を要請する状況(活動)は少なからずあるが、人類の歴史の中で最も大規模で抽象的な忠誠心を生み出した集団統合の思想が『ナショナリズム(国家主義)』『ファシズム(全体主義)』『世界宗教(キリスト教・イスラーム教)』である。

現代の先進国では法制的に『特定の個人や集団(権力者・独裁者・有力者)』に対して忠誠(忠誠心)を強制することはできないということになっているが、人間集団における制度的な忠誠心の起源を遡ると封建主義体制における『主従関係(臣下の主君に対する忠誠・奉公)』に行き着く。忠誠(ロイヤルティ)とは『自分よりも上位にある存在者(権威・権力・人格)』に自発的に服従して奉公するということであり、日本の歴史では鎌倉幕府の武家政権における『ご恩と奉公』の仕組みに制度化された忠誠心の原初形態を見ることができる。平安時代の朝廷(天皇)の権威や律令制に対する忠誠心というものも無視することはできないが、伝統的権威である天皇への忠誠を強調する『尊王思想』が本格的に台頭するのは、江戸時代末期の国学・朱子学・水戸学の『倒幕につながる歴史的文脈』においてである。

鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府といった『武家政権』における忠誠心の基本原理は『ご恩と奉公』である。即ち、『領地・俸禄(給与)』を家臣に賜与したり安堵(保障)したりする主君(幕府・藩主・戦国大名)に対して『ご恩(恩義)』を感じ、家臣がそのご恩に報いるために主君に危難がある時には『奉公(軍事的な加勢)』をするというものであった。近代国家が成立する以前の封建主義的な『忠誠心』は、パーソナルな主従関係に基づく心情的なものであると同時に、現実的な生活を支える土地・報酬と結びついた経済的なものでもあった。

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2008年10月19日

[中国革命と社会主義・共産主義:毛沢東による中華人民共和国建設]

中国革命と社会主義・共産主義:毛沢東による中華人民共和国建設

[中国の清王朝の崩壊と西欧列強の進出:1][孫文の辛亥革命と毛沢東の中華人民共和国建設]の項目で書いたように、イギリス・フランス・ドイツといった西欧列強の進出と搾取に悩まされた清王朝は、自国の内政改革と技術導入・近代化に失敗して滅亡することになる。孫文(そんぶん,1866-1925)を首班とする中国革命同盟会が武昌蜂起を起こしたことで、中国各地の軍閥が清に反旗を翻す辛亥革命(1911年)が勃発し清王朝は打倒された。1912年1月1日に、アメリカから帰国した孫文が臨時大総統の地位に就きアジア最初の共和国である『中華民国(ちゅうかみんこく)』を建国する。その後、孫文から大総統の地位を移譲された将軍・袁世凱(えんせいがい,1859-1916)が、自ら皇帝を名乗って専制的な独裁政治を行ったことで民主的な革命政府の政治はいったん断絶する。

第3革命によって袁世凱の独裁政権は転覆するが、中国大陸各地は軍閥が群雄割拠する内戦状態となり、1928年頃に北伐(ほくばつ)を達成した蒋介石(しょうかいせき,1887-1895)が一時的に国民政府の主席となり中国を統一した。中国国民党の代表であった蒋介石は、毛沢東率いる中国共産党と二度の『国共合作(こっきょうがっさく:中国国民党と中国共産党の同盟)』を行う。1924〜1927年の第一次国共合作は、中国内部の軍閥の内戦や袁世凱率いる北京政府との対立に備えるためのものであり、1937〜1945年の第二次国共合作は中国大陸の共産化(赤化)のきっかけとなるもので、盧溝橋事件以降の日中戦争に対抗するためのものであった。第二次国共合作は、満州事変を経て中国大陸に帝国主義的な利権を拡大しようとする日本に対応するための中国国民党・中国共産党の同盟であり、抗日の『国民統一戦線』へとつながっていった。

第二次国共合作には、共産主義の世界同時革命を目的とするコミンテルン(共産主義の国際機関,第3インターナショナル)の意向も働いていたとされるが、毛沢東が指揮する中国共産党は既にソビエト国家社会主義共和国連邦(ソ連)と深い関係を持っており、ソ連の支援を受けて1931年に江西省に『中華ソビエト共和国臨時政府』を成立させていた。

『資本論』や『共産党宣言』を書いたカール・マルクスの共産主義思想(革命思想)の原則は、資本家階級(ブルジョワ)と労働者階級(プロレタリアート,ボルシェビキ)の階級闘争を前提としたもので、資本家に不当に搾取されている労働者階級が革命に決起することでプロレタリアート独裁の社会主義(共産主義)政権が誕生するというものであった。しかし、20世紀前半の中国は近代化が遅れており、資本家・経営者が工場労働者を搾取するような産業経済が発達していなかったので、中国共産党の指導者・毛沢東は貧しい農村を活動拠点にしながら、生活に困窮する農民層を共産党軍に取り込んでいったのである。

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ラベル:歴史 政治 中国 思想
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2008年09月10日

[中国の清王朝の崩壊と西欧列強の進出2:孫文の辛亥革命と毛沢東の中華人民共和国建設]

中国の清王朝の崩壊と西欧列強の進出2:孫文の辛亥革命と毛沢東の中華人民共和国建設

「前回の記事」の続きになるが、同治帝の母・西太后(せいたいごう)の統治下において、太平天国の乱を武力で鎮圧した曾国藩(そうこくはん, 1811-1872)李鴻章(りこうしょう, 1823-1901)の軍閥が勢力を拡大して清王朝の外交の実権を握るようになる。曽国藩・李鴻章・左宗棠・劉銘伝・張之洞ら漢人の高級官僚は『中体西用(ちゅうたいせいよう)』のスローガンを掲げて、中国の伝統文化や王朝制度を守りながら西欧の先進的な科学技術や近代兵器を導入する『洋務運動』を推進した。しかし、1881年に、対ロシアとの間でイリ条約を結んでイリ地方を失い、1884年には、インドシナ半島の植民地化を進めるフランスと『ベトナム宗主権』をかけた清仏戦争(1884-1885)を戦って敗れる。清仏戦争の敗戦によって清王朝はベトナムを含むインドシナの利権を奪われ、東アジアの中華思想・冊封体制に基づく伝統的な政治秩序を大いに揺らぐことになった。

1894年に、朝鮮半島で東学党の乱(甲午農民戦争)が起こると、清は李氏朝鮮の宗主権をかけて明治維新後の近代日本と日清戦争(1894-1895)を戦うことになるが、清はここでも敗れて『アジアの盟主』の座から転落し下関条約を結ぶことになった。李鴻章の誇る北洋艦隊が日本艦隊に敗れたことで李鴻章は一時的に失脚したが、その後、政界に復帰して義和団事件(1900-1901)の敗戦処理を請け負うことになった。李鴻章は日本との下関条約締結の際も全権大使・欽差大臣となり、『台湾割譲・李氏朝鮮の国家主権の承認(朝鮮半島の領主権の放棄)』を認めることになった。

アジアの大国と見なされていた清がアジアの小国の日本に日清戦争で敗れたのを見て、ますます西洋列強による中国大陸分割が激しさを増すことになる。1896年から1898年にかけて、満洲・モンゴル・トルキスタンをロシア、長江流域をイギリス、山東省をドイツ、福建省を日本、華南をフランスとする中国分割が同意されたが、更に、イギリスは香港の九龍半島と威海衛、フランスが広州湾、ドイツが青島(膠州湾租借地)、ロシアは旅順・大連を『租借地』として無期限で借り受けることになった。

清王朝末期に権力を掌握した西太后(1835-1908)は、『扶清滅洋(ふしんめつよう)』をスローガンに掲げる反西洋文明の『義和団の乱』を支持したが、西欧列強と日本の八ヶ国連合軍に北京・紫禁城を陥落させられ、北京議定書に調印することで莫大な賠償金の支払や領土の割譲を行うことになった。

衰微する清王朝に残された勢力復興の可能性は『王朝文化の旧弊の排除+政治・軍制の近代化の成功』しかなく、光緒帝(在位1875-1908)は保守派の西太后の影響力を排除して、若手の士大夫、康有為(こうゆうい)・梁啓超(りょうけいちょう)・譚嗣同(たんしどう)らによる『変法自強運動(戊戌の変法, 1898年4月23日〜8月6日)』を支援した。康有為・梁啓超らの変法自強運動は、日本の明治維新や立憲君主制の導入を参考にしたものだったが、西太后の引き起こした戊戌の政変のクーデターにより中途で挫折した。

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[中国の清王朝の崩壊と西欧列強の進出1:帝国主義による中国の領土分割]

中国の清王朝の崩壊と西欧列強の進出1:帝国主義による中国の領土分割

清王朝以前の中国王朝は、中国が最も優れた文化文明の中心地であるという『中華思想』の自尊心を持ち、周辺諸国に朝貢貿易と儀礼的な拝謁を行わせる『冊封体制』によって東アジア世界の盟主としての地位を得ていた。しかし、満洲族の愛新覚羅(あいしんかくら)氏が皇帝として専制支配する清王朝(1636-1912)の統治力と国力は、19世紀に入ると『政治的内乱(民衆反乱)・経済悪化(民衆の生活困窮)・食糧供給の不足』によって大きく低下し、開国・自由貿易を求める西欧列強の圧力に抵抗し続けることが困難になってくる。清王朝は皇帝に直属する専制主義的な官僚機構を備えていたが、前時代的な官僚機構はエリート主義的発想に基づく『不正・腐敗の温床』となっており、肥大化した官僚政治機構には低迷した国力・財政や揺らいでいる国内秩序を立て直す力が無かった。

帝国主義的な軍事外交を展開する西欧列強の中で、18世紀に中国大陸に進出して貿易活動の主導権を握ったのはイギリスのハノーヴァー朝だったが、イギリスには中国に輸出する商品がなかったために、イギリスは対中貿易で大幅な貿易赤字と銀の流出という問題を抱えるようになった。イギリスは清(中国)から膨大な量の『茶・絹・陶磁器』を輸入し、その代金を『銀』で支払ったのでイギリスが産業革命後の工業経済で蓄積した銀がどんどんと清に流出していってしまったのである。

イギリスが清から最も大量に輸入していたのは宮廷サロン・貴族階級の必需品になっていた『茶』だったが、中国大陸で茶の貿易ができるのは『広州』に限られていた。ハノーヴァー朝のジョージ3世は清(中国)に自由貿易のための更なる開港を呼びかけるために、乾隆帝80歳を祝う祝賀使節としてジョージ・マカートニーを派遣したが、清の皇帝・乾隆帝はイギリス国王の朝貢を許しただけで開港・自由貿易の求めには応じなかった。

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[地方自治権の固有説と委任説:中央政府と地方自治体の力関係]

地方自治権の固有説と委任説

『前回の記事』では、地方自治の歴史と中央集権国家の成立について述べたが、地方自治の権限・強度は各国の近代化の過程に大きく依拠している。統一的な政治権力を付与された近代国家の形成過程によって、地方自治権がどのくらい強いのかが変わってくるわけだが、『日本・ドイツ・フランス』といった市民社会・地域社会の政治基盤が中央政府の補助金政策によって抑制されている国では地方自治権が弱くなる傾向がある。地主・貴族階級の影響力が強く残存していたイギリスは『地方自治の模範生』と言われたこともあったが、地主階級(領主階級)・市民社会・地域社会の連合体として近代国家が形成されていった『アメリカ・イギリス・スイス』といった国では地方自治権が相対的に強くなっている。

地方自治権を基礎づける伝統的理論には、地方自治体など地方政権には固有の自治権(行政権)が元々備わっているとする『固有説』と中央集権国家の主権の委譲によって初めて自治権が認可されるという『委任説(委譲説)』とがある。固有説は地方自治体(地方社会)の自然的自立性と歴史的起源性に重点を置いた理論であり、人工的な中央政府(国民国家)よりも自然発生的な地域社会(地方政権)のほうがより本質的な政治権限を持つと考える。

一方、委任説は国民相互の社会契約によって成立した中央政府(統一国家)の国家主権を絶対的なものと定義し、地域社会(地方自治体)は国民国家の行政単位・構成単位に過ぎないと考える。固有説では『地方自治体・地域社会の自立性』が前提とされ、地方自治体の相互契約によって国家権力が有効になると考えるが、委任説では『地方自治体・地域社会の従属性』が前提とされ、不可侵の国家権力によって地方自治体に政治的権限が分配・委譲されるというように考えるわけである。

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2008年09月09日

[地方自治の歴史と中央集権的な近代国家]

地方自治の歴史と中央集権的な近代国家

2001年の小泉純一郎政権で提議された『三位一体の改革(聖域なき構造改革の一つ)』とは、『国庫補助負担金の廃止・縮減・税財源の移譲・地方交付税の見直し』の3点を基軸にして地方分権を推進しようとする政策案だったが、福田首相が突然の辞任をした2008年現在においても財政再建・地方の自立の観点から地方分権は大きな課題として残っている。『地方分権の推進』とは即ち『地方自治の強化』であり、地方自治とは中央集権国家における地方公共団体(地方自治体)の財政的・行政的な自治体制の整備のことである。

絶対王政や市民革命を経た近代統一国家の基本原理は、中央政府が全国の地方自治体に『補助金・地方交付税』といったインセンティブを与えて、それと引き換えに国家レベルの『政策的な計画・指示』に従わせるという『中央集権体制』である。近代国家が成立する以前の『古代・中世・近世の社会』には、厳密な意味での『地方自治』の問題は存在せず、古代の氏族社会では血縁共同体や都市国家によって政治が運営され、中世の封建主義社会では『地方の領主権』は『中央の王権』から独立していた。政治権力が国家単位で統一された近代国家の登場によって、官僚機構を備えた『中央集権的な統治システム』が一般的なものになり、地方都市(地方社会)は中央政府に財政的にも権限的にも従属するようになってしまった。

また、貨幣単位が統一され経済取引が地方社会を超えて活発化する『資本主義経済の発達』によって、各地方社会に特有の『文化・伝統・慣習・風俗』は急速に衰退し、近代国家的な文化的・規範的同質性が高まっていった。ヨーロッパ世界の古代ギリシア・古代ローマの社会には、『ポリス(都市国家)』といった自然発生的な地方都市が存在しており、共同体的な性格と自立的な政治機構を兼ね備えていたので、中央政府が地方共同体を全面的に支配するという政治形態は殆ど見られなかった。イタリア半島を起点としてヨーロッパ全域・北アフリカ・シリア・中東にまで領土を拡大した古代ローマ帝国でさえも、各地の地方政権を『属州(大幅な自治権を承認した属州)』に認定して全体を緩やかに統治しているだけであり、各地方政権の伝統文化や統治手法に中央集権的な統制を及ぼすことは殆ど出来なかったのである。

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2008年08月26日

[知識人階級(インテリゲンチャ)と大衆社会]

知識人階級(インテリゲンチャ)と大衆社会

知識人(ちしきじん)とは、大学機関等で高等教育を受けて高度な思考能力と専門知の体系を有する個人のことであり、知識人が特定の社会階層・職業機構に集まることによって知識人階級を構成する。集団としての知識人は知識人階級を構成するが、知識人階級はインテリゲンチャ(インテリ)と呼ばれることもある。これはロシア語を語源にしている。

ドイツ(ワイマール共和国)の医学体系・学校制度・知識活動を模範としていた明治〜大正期からインテリゲンチャが形成され始めたが、日本で知識人階級という言葉が一般的に知られ始めたのは昭和初期とされる。昭和初期にロシア語のインテリゲンチャという言葉が使われた背景には、ロシアの知識人階級が一定の啓蒙的役割を果たした『ロシア革命の影響』があるとされる。ロシア革命に賛同した知識人の多くは、ソ連の官僚主義政治においてテクノクラート(官僚支配階級)として活躍したが、このことが上昇志向・実力主義指向の強い日本の知識人(まだ少なかった国立大学・帝国大学の卒業者)に与えた影響は相当に大きかった。

『知識人』の対義語は『大衆(民衆)』であり、知識人は日常生活や経済活動(生計)の範囲に収まらない社会・人間に対する学術的な問題意識を持ち、論理的・分析的に物事を考えて諸問題の解決策を提出しようとする傾向がある。基本的に、知識人は肉体運動よりも精神活動を重視しており、精神的な知的営為(言語・数理・統計・分析・政治)などによって社会に価値を創出したり社会経済的な活動に貢献したりする。知識人は主に広義の頭脳労働に従事することになったが、知識人が就く実際の職業としては『政治家・経営者・学者(教授)・教師・文学者(作家)・芸術家・記者(ジャーナリスト)・評論家・宗教家・哲学者・クリエイター』など様々なものがあり経済階層としての統一性は見られない。

近代社会を構成する経済階層を『上流階級・中産階級・下層階級』に分けた場合に、知識人階級に属する個人はどの階級にも当てはまることがあるし、下層階級や無産者(無職者)でありながら高度な知識・情報や革新的な思想性(社会の変動要因)を持つ知識人・思想家も歴史上に多く現れた。日本の昭和期における知識人階級は、支配者階級(上流階級)と労働者階級(農民・工場労働者)の中間的な階級に位置づけられており、大企業の高学歴なホワイトカラーを含む広義のインテリゲンチャは中間階級を形成した。

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2008年03月08日

[知能の定義と知能検査:キャロル・ドウェックの熟達志向の知能理論]

知能の定義と知能検査:キャロル・ドウェックの熟達志向の知能理論

知能(intelligence)とは何であるのかを定義した心理学者は数多くいるが、一番よく知られている知能の定義は『ビネー式知能検査』で測定される知能指数(IQ, Intelligence Quotient)である。ビネー式知能検査は、フランスの初等教育(義務教育)において特別支援教育を受けるべき精神遅滞児(知的障害児童)を選別するために、心理学者ビネーと医師シモンによって開発された知能テストである。ビネー式知能検査は世界的に実施されている知能検査であり、『スタンフォード・ビネー知能検査』『田中・ビネー知能検査』『鈴木・ビネー知能検査』などが存在する。個別式知能検査として最も利用率が高いものは、『ウェクスラー式知能検査』と『ビネー式知能検査』である。集団式知能検査として良く知られたものには、『田中B式知能検査』や『京大NX知能検査』などがある。

知能指数(IQ)は『精神年齢(MA)÷生活年齢(CA)×100』の公式によって算出され、IQ100が平均値とされる。精神年齢(mental age)は、その発達年齢の人(子ども)が『正しく回答できると予測される問題』にどのくらい正答できるかによって測定され、生活年齢よりも高い年齢向けの問題に正答できればIQは高くなる。ビネー式知能検査は、一般に言語性知能の測定に向いているが、ウェクスラー式知能検査は、言語性知能と非言語性知能を合わせた多面的な知能の測定に向いている。

心理学者が定義した主な知能観としては、以下の4つがよく知られている。L.M.ターマン(L.M.Terman)は、知能を目の前に実際に無いものについて思考・推測・計画する『抽象的な思考能力』と定義した。W.シュテルン(W.Stern)は学問・記憶などに用いる言語的知能よりも生きていく為の適応能力のほうを高く評価して、知能を『新しい環境への適応能力』であると定義した。W.F.ディアボーン(W.F.Dearborn)は、今よりも適応的な知識・経験・技術を習得する学習能力こそが知能であると考え、知能を『新たな知識・技能を習得する学習能力』と定義した。ウェクスラー式知能検査を開発したD.ウェクスラー(D.Wechsler)は、外部環境への柔軟な適応を効果的な情報処理を重視して、知能を『周辺環境を理解し、与えられた状況(問題)を適切に処理する能力』と定義した。

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